【正統派番外編:白檀の夜、仮面を脱ぐ時】
慶長のある夜。
江戸城の奥深く、限られた者しか立ち入れぬ一室。
そこには、天下を震撼させる「大御所様」の姿はどこにもなかった。
「……ふぅ。……やっと、終わったか」
重い扉が閉まった瞬間、五郎は糸が切れた人形のように、その場に膝をついた。
昼間、大名たちの前で見せていた鋭い眼光は消え、そこにあるのは、一日の激務に疲れ果てた一人の男の顔である。
「お疲れ様でした、五郎様」
凛とした、しかし春の陽だまりのように温かい声。
顔を上げると、そこにはあの日から少しも変わらぬ微笑みを湛えたお愛が、白檀の香りと共に佇んでいた。
「……お愛。ああ、お前か。……お前だけだ、私をその名で呼んでくれるのは」
五郎の強張っていた肩から、すうっと力が抜けていく。お愛が差し出した手を、五郎は壊れ物を扱うように、しかし縋るように強く握りしめた。
二人は縁側に腰を下ろした。
目の前には、月明かりに照らされた静かな庭。遠くで聞こえる虫の音が、ここが戦場ではないことを教えてくれる。
「今日は、五郎様の好きな麦茶を冷やしておきましたよ。それと……甘いお饅頭も」
お愛が甲斐甲斐しく用意したのは、五郎が「怪物」であることを忘れるための、ささやかな御馳走であった。
「ああ……美味い。お前が淹れてくれる麦茶は、どうしてこんなに身体に染みるんだろうな」
五郎は麦茶を一口飲み、ふう、と深く息を吐き出す。お愛の手が、五郎の白髪の混じった頭を優しく撫でた。その温もりに、五郎はたまらずお愛の膝に頭を預ける。
「五郎様。今日はどんな一日でしたか?」
「……酷い一日だったよ。正信は難解なあやとりで私を煙に巻くし、天海は算盤の玉を弾く音を立てて私の計算を笑う。……何より、秀忠がまた江殿に叱られて、私の部屋に逃げ込んできてな」
五郎の口から溢れるのは、天下の政道ではなく、まるで近所の隠居が話すような他愛もない愚痴だ。お愛は「まぁ、まぁ」と笑いながら、五郎の眉間に刻まれた皺を指先でそっと解いていく。
「……お愛。私は、良い『家康』になれているだろうか」
ふと、五郎が弱音を漏らした。お愛は手を止め、五郎の瞳をじっと見つめ返す。
「五郎様。貴方は家康公よりもずっと、この国を愛していらっしゃいます。……そして、私を愛してくださっている。それだけで、貴方は本物よりもずっと尊い『天下人』ですよ」
お愛の言葉に、五郎の瞳が潤んだ。
四十年、誰も褒めてくれなかった。誰も「偽物でいい」とは言ってくれなかった。
お愛だけが、この孤独な偽物の人生を全肯定してくれるのだ。
五郎はお愛の腰に腕を回し、その胸に顔を埋める。
お愛の衣から香る、あの懐かしい白檀の香り。これこそが、五郎が地獄の底を歩いてまで守りたかった「泰平」の正体であった。
「お愛。……愛している。何度言っても足りない。……お前が望んだ平和な世を、私は必ず作り上げる。だから、もう少しだけ、私の隣で笑っていてくれ」
「はい、五郎様。どこへも行きません。……ずっと、貴方の『月』でいさせてくださいね」
月明かりの下、二人はどちらからともなく唇を重ねた。
それは、天下人としての契約ではなく、ただ一組の男と女として交わす、永遠の約束。
今夜だけは、五郎は「徳川家康」ではない。
愛する人の隣で、冷えた麦茶と甘い菓子を楽しみ、ただ「愛している」と繰り返す、世界で一番幸せな五郎という名の男であった。
「……殿。……殿。そのままではお風邪を召しますよ」
阿茶の声だった。
目を開ければ、そこは冷たい夜の静寂。
そうだった、今日は十九日。
阿茶が手向けてくれた白檀の香は、すでにその残り香が薄れかけていた。
「阿茶、いつもすまぬな。……そうだ、良い夢を見たぞ」
阿茶は優しく微笑み、静かに告げた。
「続きは寝所で。お愛様もお待ちかねですよ」




