【天国コメディ編・第四話:聖域の侵入者 —— 兵法「空気」の極意】
浄土の静かな庵には、清らかな風とともに、甘く優しい白檀の香りが漂っていた。
目の前には、菜の花色の紬に身を包んだ愛しいお愛。
四十四年という長きにわたる重責をようやく下ろした五郎は、かつてないほどに「一人の男」としての本能を滾らせていた。身体は二十四歳の全盛期。気力も体力も、そして下心も、準備は万端だった。
「お愛……。もう、勘違いでも独り相撲でも構わない。俺は今、猛烈に君を……抱きしめたいんだ!」
「あら、五郎様。そんなに急がなくても、時間は無限にありますのに……きゃっ」
二十四歳の瞬発力を遺憾なく発揮し、五郎がお愛を押し倒そうとした、その刹那だった。
「父上ーーー!! 遅くなりまして、申し訳ございませぬ!!」
凄まじい風圧とともに、襖が(天国だというのに)蹴破らんばかりの勢いで跳ね飛ばされた。
土足同然の勢いで飛び込んできたのは、家康の次男、結城秀康である。その瞳は、溢れんばかりの感動と忠義で、網膜が焼けんばかりにキラッキラと輝いていた。
「(空中で静止したまま)……ひ、秀康!? なんでお前がここに! っていうか、今じゃない! 今だけは絶対に、来るべき時じゃないんだ!!」
五郎の絶叫も、今の秀康の耳には届かない。彼は五郎の前に跪くと、熱烈な口調でまくし立てた。
「父上! 私、あちら(現世)での父上の御姿を、つぶさに拝見しておりました! 父上が、養子に出した私のためにあんなに涙を流し、これほどまで心を痛めてくださっていたとは……! 少しでも『自分は冷遇されている』などと思い込んでいた過去の自分を、今すぐこの場で斬り捨てたい! 秀康、父上の深い慈愛に触れ、もう、感無量にございます!」
かつて「家康」として、政治的判断から秀康を他家へ出さざるを得なかった苦悩。そして彼が早世した際に流した、人知れぬ涙。それらすべてを、秀康は「不器用な父の愛」として一二〇パーセントポジティブに受け取ってしまっていた。
「わかった! お前の気持ちは痛いほどわかった! 親子としての和解も、感動の再会も、全部受け止めてやるから! とりあえず……空気を読んでくれ!!」
必死の形相で叫ぶ五郎。だが、真面目一徹な秀康の脳内フィルターを通ると、その言葉は全く別の意味……すなわち、崇高な「教え」へと変換された。
「(ハッとして姿勢を正す)……空気を……読む? ……! なるほど、『気(空気)』を読み、己を風と同化させることで敵の虚を突く……。それこそが、新しい兵法の極意なのですね! さすがは父上、浄土に来てなお、武の極致を追求しておられるとは! 恐れ入りました!」
「違う! 物理的な空気の話じゃない! 雰囲気だ、ムードだ! 目の前のお愛を見て察しろ!」
「雰囲気……。敵の殺気を気配で察するのではなく、その場の『空気の揺らぎ』のみで位置を把握せよ、と! 素晴らしい! 父上、至高の教え、感謝いたします! 早速、あちらにおられる忠勝殿と稽古して参ります!」
秀康は一人で勝手に納得し、清々しいほどの笑顔を浮かべると、再び嵐のように去っていった。
静まり返る庵。
五郎は完全に「賢者タイム(未遂)」のような深い脱力感に襲われ、そのまま畳に突っ伏した。
「ふふふ。五郎様、秀康様もあんなに立派になられて……。なんだか、とっても賑やかな天国になりそうですね」
お愛がクスクスと楽しそうに笑う。
「(泣きながら)……賑やかすぎて、俺たちのラブシーンが一行も進まないんだけど……」
五郎のよこしまな、けれど純情な夢は、天国の愉快な仲間たち(主に血気盛んな身内)によって、今日も健やかに阻まれるのであった。




