【コメディ回:温泉なんて嫌いだ —— 狂乱の軍議と、100万年の溜息】
浜松別邸。
月光が静かに差し込む縁側で、五郎とお愛は、かつてないほど「いい雰囲気」の中にいた。
お愛にプロポーズして数日。薬草の話以外でこれほど近くに座ったことはない。
(……今だ。今しかない。100万年分の勇気を、この瞬間に注ぎ込むのだ……!)
五郎は心臓の音が外まで聞こえそうなほど激しく早鐘を打つのを感じながら、ゆっくりとお愛の顔に近づいていく。お愛もまた、頬を林檎のように赤らめ、静かに目を閉じた。
あと数センチ。触れ合うか、というその刹那。
「殿ォォォ! 緊急事態にございますッ!!」
ドガシャァァァン!! と障子を蹴破るような勢いで、石川数正が飛び込んできた。
「なっ、数正殿!? 貴殿、空気というものを……!」
慌ててお愛から飛び退き、畳に頭を打ち付ける五郎。お愛は真っ赤になって顔を伏せている。
「空気など読んでいる暇はありませぬ! 武田軍が動きを見せました。今すぐ評定の間へ!」
「兄上を呼べ! 私は予備だ、予備だと言っているだろう!」
「それが……家康公は『戦の前に腰を温めてくる』と言い残し、お万殿を連れて温泉へ行かれたきり戻りませぬ!」
五郎の目の前が真っ暗になった。
「温泉……お万殿……。兄上ぇぇぇ!! 誰のせいで俺の100万年が台無しになったと思っているんだ!!」
「殿、泣き言は結構! さぁ、早くこの具足を!」
「おい、無理やり着せるな! 痛い、紐がきつい!」
評定の間。居並ぶ重臣たちの前に、殺気立った「家康(五郎)」が座っていた。
「殿、武田の動きですが、これには慎重な——」
「慎重など不要だ! 数正、地図を出せ!」
五郎の脳内は、中断されたラブシーンへの執着でフル回転していた。早く終わらせて別邸へ戻らねば、お愛の勇気が霧散してしまう。
五郎は、薬草学で鍛えた観察力と、兄・家康の100倍は冴え渡る知力を総動員した。
「武田の狙いはここだ! 地形の勾配、風向き、さらにこの季節特有の泥の粘度……すべて計算済みだ! 我らはここに伏兵を置き、火計を放つ。さらに敵の補給路を断つためにこの山道に罠を仕掛けろ! 質問は受け付けん、三十分で布陣を完了させろ。以上だ、解散!!」
「お、おお……今日の殿は、まるで戦の神が憑いたようだ……」
重臣たちが五郎の神懸かり的な戦術に圧倒され、蜘蛛の子を散らすように出ていく。
五郎は具足をガチャつかせながら、風のような速さで別邸へと走り出した。
「お愛! お待たせ……した……」
息を切らせて戻った五郎が見たのは、既に部屋の片付けを終え、行灯を消そうとしているお愛の姿だった。
「……五郎様。軍議、お疲れ様でした。もう夜も更けましたし、明日も早いのでしょう? ……わたくしは、これで失礼いたしますね」
お愛は、いつもの凛とした、けれどどこか「日常」に戻ってしまった微笑みを浮かべて去っていった。
あの大胆な「100万年分の空気」は、戦の緊張感の中に完全に溶けて消えていた。
一人、縁側に残された五郎は、月を見上げて絞り出すように叫んだ。
「……温泉。……温泉なんて、大っ嫌いだぁぁぁ!!」
その声は、遠くの温泉地で「あ〜、極楽極楽」と鼻歌を歌う兄の耳には、微塵も届かなかった。




