【打ち上げ編・お愛パラレル第三話:悠久の香り、共犯の果て】
元和二年、四月。
駿府城を包む夕闇は、燃えるような朱色に染まっていた。
その眩い光は、城の奥深く、静まり返った寝所にまで差し込み、老いた一人の男の横顔を照らしている。
天下を統一し、戦乱の世に終止符を打った「神」——のちの東照大権現、徳川家康。
だが、この部屋に「神」などいなかった。
そこにいたのは、重すぎる「家康」という器にひびを入れ、今にも砕け散ろうとしている一人の老いた「弟」、五郎であった。
五郎の傍らには、同じく歳を重ね、白髪が混じりながらも、あの頃と変わらぬ聖母の微笑みを湛えたお愛が座っていた。
彼女の指先は、今も静かに白檀を焚き続けている。この数十年間、江戸城でも、この駿府城でも、二人の周りから白檀の香りが消えたことは一度もなかった。それは、外の世界の喧騒から「五郎」と「お愛」を守り抜くための、目に見えぬ結界のようなものであった。
「……お愛。……聞こえるか」
五郎の声は、もはや風の音と見分けがつかぬほどに微かだった。
「はい、五郎様。ここに、そばにおりますよ」
お愛は、五郎の節くれだった手を、両手で優しく包み込んだ。
五郎は、ゆっくりと目を開けた。その視線の先には、窓越しに大きく裾野を広げる富士の山が見える。
「……わしは、……兄上の『器』を、守り通せただろうか」
五郎の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、枕を濡らした。
「……泰平を成し、徳川の根を張った。だが、そのために多くの血を流し、嘘を重ね……其方を『側室』という名の牢獄に閉じ込めてしまった。……わしは、其方を本当に幸せにできたのだろうか」
五郎の問いは、七十年近くの人生をかけた、魂の叫びであった。
松平元康という自分の名を捨て、徳川家康という偶像を襲名し、死ぬまで仮面を剥がすことを許されなかった男。その隣で、自らも「家康の女癖の犠牲者」という汚名を被りながら、共犯者として歩み続けてくれた妻。五郎は死を前にして、自分たちが積み上げてきた「幸福」という名の器の脆さに、怯えていた。
すると、お愛は包み込むような温かな声で、静かに、けれど揺るぎない力強さで言った。
「……五郎様。まだ、そんなことを仰るのですか」
お愛は、五郎の顔を覗き込み、その震える手を自分の頬に寄せた。
「私は、徳川家康の側室として生きたのではございませぬ。……私はただ、この白檀の香りがする、貴方様の妻として、今日まで歩んできたのです」
お愛の瞳は、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた。
「世間がこの場所を『家康公の隠居所』と呼び、貴方を『大御所様』と崇め奉ろうと、わたくしにとっては、ここは貴方と二人で守り抜いた、あの浜松の邸の続きに過ぎませぬ。……名など、器に過ぎないと、あの日申し上げたはずです」
彼女は五郎の耳元に唇を寄せ、秘め事を語るように囁いた。
「器が壊れても、中身はこぼれませぬ。……貴方が五郎様であり、私が貴方の愛であれば、それで十分なのです。……五郎様、見てください。富士が、あんなに美しく笑っておりますよ」
五郎は、お愛の言葉に、全てを許されたような安らぎを感じた。
こわばっていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。
(……ああ。やっと、終わるのだな)
五郎は、心の中で呟いた。
家康という重い鎧が、征夷大将軍という高い冠が、そして徳川という巨大な呪縛が、音を立てて崩れ去っていく。
視界が白く霞み、白檀の香りが強くなる。その向こう側に、かつて三河の寺で厳しくも温かかった忠真の叱咤、そして「すまなかったな」と笑いかけてくる兄・家康の姿が見えた気がした。
「……お愛。……ありがとう」
五郎は、最後の力を振り絞って、お愛の手を握り返した。
「……ああ。やっと、……五郎に戻れる」
五郎の口元に、穏やかな、本当に穏やかな微笑みが浮かんだ。
それが、戦国を終わらせた「英雄」の、最後の一言であった。
お愛は、五郎の握る力がふっと弱まったのを感じると、その胸に静かに顔を埋めた。彼女の目からも、静かに涙が溢れ出した。だが、それは悲しみの涙ではなかった。ようやく、愛する人を「器」という苦しみから解き放つことができたという、共犯者としての、最後の「達成感」であった。
「……五郎様。……わたくしも、すぐに参ります。……向こうでも、菜の花色の紬を着て、白檀を焚いて待っておりますからね」
お愛は五郎を抱きしめたまま、その温もりに溶け込むように、自らもゆっくりと瞳を閉じた。
彼女の呼吸が、五郎の魂を静かに追いかけるようにして、止まった。
駿府城の奥の間。
そこには、互いの手を固く結び合ったまま、眠るように旅立った老夫婦の姿があった。
公式な歴史書には、元和二年四月十七日、徳川家康が薨去したと記される。お愛という側室が、その死に際してどれほどの忠節を尽くしたかが、後世に美談として語り継がれる。
だが、真実を知る者は、もう誰もいない。
夕暮れの富士の影が、静かに城を飲み込み、夜が訪れる。
部屋に残されたのは、主を失った豪華な山吹色の打掛と、そして、いつまでも、いつまでも消えることのない、甘く優しい白檀の香りだけであった。
それは、歴史という名の「大きな嘘」の中で、二人の人間が命を削って守り抜いた、唯一にして真実の「愛の跡」であった。




