【打ち上げ編・パラレルお愛第二話:落日の器、影の襲名】
天正十年、六月。
本能寺に燃え上がった炎は、徳川の運命をも焼き尽くさんとしていた。
「……信長公が、討たれた」
知らせを受けた堺の地で、兄・家康の顔からは血の気が一瞬で失われた。三方ヶ原を回避し、瀬名と信康という最愛の家族を失いながらも、ようやく徳川の基盤を固めつつあった矢先の出来事である。
同じ頃、浜松城で留守役をしていた五郎にもその凶報は届いた。
動揺する五郎に、酒井忠次が告げたのは非情な一言だった。
「元康殿。……家康公の装束を着て、奥の間に控えてくだされ」
それは、万が一兄が伊賀越えで命を落とした際、即座に「家康」として立つための準備であった。五郎はそれが最善と分かってはいたが、袖を通した兄の装束は、鉛のように重く冷たかった。
過酷を極めた伊賀越え。ようやく家康が浜松城へ辿り着いた時、五郎が目にしたのは、安堵した兄の笑顔ではなかった。
冷たい寝所に横たわった家康の瞳には、死の影が濃く落ちている。伊賀越えの無理が、妻子を失って以来ひそかに蝕まれていた彼の心身を、ついに限界まで追い詰めたのだ。
家康は、震える手で五郎の手を握りしめた。
「……五郎。すまぬ。わしはもう、この器を支えきれぬ」
「兄上、何を仰るのです! すぐに薬草を……」
「聞け、五郎。……お前が、家康になれ」
家康の言葉は、五郎の魂を貫いた。
「わしの死を伏せよ。お前が家康となり、この国を……泰平を成せ。そして、お愛を……わしが瀬名を幸せにできなかった分まで、お前がその手で幸せにしてやってくれ」
それが、本物の徳川家康がこの世に遺した、最後の我が儘であった。兄の手から力が抜け、静かにその瞳が閉じられた時。密かに葬られた兄の亡骸と共に、五郎の中にいた「松平元康」という男もまた、静かに死を遂げたのである。
五郎は立ち上がった。その顔には、もはや弟としての甘えはない。
「……承知いたしました。兄上」
だが、その決意を冷徹に拒絶する者がいた。石川数正である。
「……偽物だ。貴殿は、あの方ではない」
数正の瞳には、狂おしいほどの忠義と、絶望が宿っていた。彼は本物の家康と共に歩み、共に苦しみ、共に家族を失った男である。その魂は、五郎が家康の仮面を被ることを決して許さなかった。
「数正殿、これは兄上の遺言なのです。徳川を守るためには……」
「黙られよ! 影に徳川が救えるものか! 私は、あの方のいない徳川に、もはや用はない」
数正はそう言い残すと、五郎に背を向け、闇の中に消えた。後に「数正の出奔」として歴史に刻まれる事件の真相は、偽物の主君を認められなかった一人の忠臣の、悲壮な抵抗であった。
孤独になった五郎を支えたのは、本多忠勝だった。
「元康殿……いや、殿。数正殿が何と言おうと、俺が殿の盾になる。殿を本物の『徳川家康』にしてやる」
忠勝は、兄の死と重責に押し潰されそうな五郎の心を守るため、武骨な彼には似合わぬ非情な策を提案した。それは、お愛との「再会」である。
「知恵者ではない俺だが、殿が一人で地獄を歩むのを見てはおれん……。お愛殿は我が本多の娘。俺が泥を被って手配するゆえ、家康公の側室として迎え入れられよ」
五郎が「元康」としてお愛と過ごした数年間は、表向きは「死んだ弟」の過去として葬り去られた。その上で、家康(五郎)が亡き弟の妻を奪うという形で、お愛を側室に迎える。世間は「家康の女癖の悪さ」を嘲笑するだろうが、それこそが、二人が共に生きるための唯一の「器」であった。
数ヶ月後、浜松城の奥の間。
菜の花色の紬を脱ぎ捨て、金糸の刺繍が施された重厚な山吹色の打掛を纏ったお愛が、五郎の前に現れた。
この豪華な打掛こそが、彼女がもはや「正妻」ではないことを、世間に知らしめる装いでもあった。
五郎は、彼女の美しさに息を呑み、そして次の瞬間、床に額を擦り付けて号泣した。
「……許してくれ、お愛。私の不徳ゆえに、其方をこんな場所に引きずり込み、世間に指を刺される側室に落としてしまった。私さえ……私さえ、家康になどならなければ……っ」
五郎の涙が、お愛の華やかな山吹色の衣を濡らす。
すると、お愛は静かに微笑み、震える五郎の頭を、母親が幼子をあやすように優しく抱き寄せた。
「五郎様。泣かないでくださいませ。……名など、器に過ぎないと、いつか申し上げましたはずです」
お愛の声は、どこまでも澄み渡っていた。
「世間が貴方を家康様と呼び、私を不義の側室と蔑もうと、それが何だというのでしょう。この重い衣も、側室という名も、貴方の傍にいるための『器』に過ぎませぬ。器がどれほど歪もうとも、中に満ちている私と貴方の心が変わらぬのであれば、私はそれで幸せなのです」
お愛は、五郎の顔を上げさせ、その瞳をじっと見つめた。
「私は、どんな形でも……たとえ影の中に隠れる側室であっても、貴方のそばにいられれば良いのです。それこそが、私の選んだ道なのですから」
五郎はお愛を強く、折れんばかりに抱きしめた。
部屋に漂う白檀の香りは、かつての婚礼の夜のような「祝福」ではない。
それは、自分たちの本当の名前を捨て、嘘を真実として生き抜くことを決めた、二人の「共犯者」たちのための、静かなる誓いの香りであった。




