【打ち上げ編・パラレルお愛第一話:偽りの春、白檀の祝言】
元亀三年、十二月。
遠州・浜松城を包む空気は、裂けんばかりの緊張に満ちていた。
「追いかける。……舐められてたまるか。一矢報いねば、三河武士の名が泣くわ!」
本物の徳川家康は、煮え繰り返るような屈辱に顔を歪め、今にも出陣の号令を下さんとしていた。武田信玄という巨魁に背後を通り抜けられ、庭先を荒らされた怒りは、慎重な家康の理性を焼き切ろうとしていた。
だが、その甲冑の袖を、背後で控えていた五郎が、静かに、しかし鋼のような力で掴んだ。
「なりませぬ。……あれは、誘っております。虎が牙を隠している時は、決して近づいてはなりませぬ。兄上、今は耐え忍ぶ時です」
五郎の瞳には、かつて三河の寺で叔父・忠真から授かった「理」が、静かな灯火のように宿っていた。
「今、兄上が討たれれば、徳川は終わります。影すら残らぬほどに。……生きて、時を待つのです」
沈黙が広間を支配した。家康の呼吸が荒く響く。刀の柄を握る拳が白く震え、やがて、ゆっくりと力が抜けた。
歴史が、音を立てて変わった瞬間であった。
三方ヶ原という「地獄」は訪れず、家康が討死し五郎が過酷な影武者人生を歩むはずだった運命の糸は、ここで一度、解きほぐされたのである。
数日後、家康は主だった重臣たちの前で、厳かに告げた。
「皆、聞け。……この者はわしの弟、五郎である」
家康の声には、長年日陰に隠し続けてきた肉親を、ついに一門として迎え入れる兄としての深い情が滲んでいた。
「今日より松平の連枝とし、『松平五郎元康』と名乗らせる。わしと顔が同じゆえ、表向きは病弱で城に引きこもっていると噂を流せ。……五郎、不自由をかけるが影としてわしを支え、万が一の折には、わしの代わりとなってくれ」
五郎という「不義の子」は消え、徳川の正統な一門としての居場所が与えられた。それは、五郎が生まれて初めて手に入れた「自分自身の名」であった。
そして、その「再生」の証として、家康が五郎に贈ったのが、お愛との正式な祝言であった。
本多家の養女として、影武者の慰めではなく、正式な妻として五郎に嫁ぐこととなったお愛。
祝言の夜、浜松城の奥の間には、柔らかな月明かりが差し込んでいた。
五郎の前に現れたお愛は、菜の花を思わせる鮮やかな、それでいて温かみのある菜の花色の紬を纏っていた。豪華な絹ではなく、あえて素朴な紬を選んだのは、五郎という男の飾らない本質を愛した彼女なりの意思表示であった。
部屋には、彼女が大切に持ち込んだ白檀の香りが静かに満ちている。
「……五郎様。いえ、元康様とお呼びすべきでしょうか」
お愛が少しいたずらっぽく、それでいて慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「いや、五郎でいい。……私は、お前の前では、ただの五郎でいたいのだ」
五郎は、彼女の華奢な肩を抱き寄せた。影武者として誰かの人生をなぞるのではない、一人の男としての、震えるような歓喜。
「お愛……私は、幸せだ。こんなことが許されるのかと思うほどに」
五郎の目から、大粒の涙が零れ落ち、お愛の菜の花色の肩を濡らした。
お愛は何も言わず、その頭を優しく胸に抱き寄せた。白檀の香りが、二人の孤独を優しく包み込み、溶かしていく。
それは、嘘の歴史の中で二人が掴み取った、最初で最後の「純粋な春」であった。
だが、この幸福という名の陽だまりは、同時に深い影を落としていた。
浜松で五郎とお愛が睦まじく語り合っていたその頃、岡崎城の瀬名(築山殿)と信康は、凍てつくような孤独と疑心暗鬼の中にいた。
「……浜松の殿は、突如として見知らぬ弟君を連枝とし、重用し始めたとか。岡崎の私たちは、もう忘れられたのでしょうか」
瀬名の呟きは、誰にも届かぬまま、寒風の中に消えた。
五郎が「松平五郎元康」として家臣団からの信頼を集めれば集めるほど、嫡男である信康の心には暗い不安が影を落としていく。
「父上は、気性の荒い私ではなく、あの叔父上を次の当主に据えるおつもりではないのか……」
三方ヶ原を回避し、徳川が安泰となったことで生まれた心の隙間。五郎が表舞台に出たこと自体が、信康を恐れさせ、それが武田の放った透波の甘い言葉に付け込まれる致命的な隙となってしまった。
五郎がよかれと思って瀬名に送った「慰めの文」も、数正の厳しすぎる岡崎への監視も、すべてが裏目に出た。瀬名は不満を募らせ、信康は己の存在意義を見失い、ついに取り返しのつかない凶行へと走る。
翌天正七年。信長からの非情な弾劾状が届いた時、五郎は愕然とした。
「そんな……私が『弟』として光を浴びたことが、信康をそこまで追い詰めていたというのか……」
浜松城の広間で、家康と五郎は向かい合った。
「元康。……わしは、瀬名と信康を斬れぬ」
兄・家康の声は、かつて三方ヶ原で出陣を止めた時よりも、弱々しく震えていた。
「すまぬ、五郎。徳川を守るために……お前が、わしの代わりに泥を被ってくれ」
結局、五郎は「兄の身代わり」としてではなく、「弟」として、兄の慟哭と徳川の業を背負い、岡崎へと向かうこととなる。
お愛との初夜、白檀の香りに酔いしれていたあの幸福な時間は、もはや遠い幻のようだった。
出立の夜。五郎は、愛する妻の手を強く握り、絶望に満ちた声で呟いた。
「……お愛。名を手に入れ、お前と幸せになれると思っていた。だが、私が光を浴びた分、深くなった影が岡崎を飲み込んでしまった。……私のこの手が、兄上の妻子を殺めるのだ」
五郎の目から、血を絞るような涙がこぼれ落ちた。
するとお愛は、その震える無骨な手を両手で包み込み、自らの頬に寄せた。
「五郎様。……あの日、貴方様が私に名を下さり、光を与えてくださいました」
彼女の瞳には、かつてないほどに強く、澄んだ光が宿っていた。
「そのお手が血に染まるというのなら、私も共に被りましょう。……行きましょう、五郎様。地獄の底へも、私がお供いたします」
徳川の泰平という器を支えるために、家族の血という犠牲を払わねばならぬ理不尽。
五郎とお愛は、互いの魂を固く結び合わせたまま、血と涙に濡れた「影の季節」へと、再び足を踏み入れていくのであった。




