【打ち上げ編・パラレル後編:影を背負う覚悟、光を放つ槍 —— 唯一無二の「兄弟」へ】
十五歳で運命を分かち合ってから、二年。
浜松城下の一角、人目を避けるように建つ別邸で、十七歳になった五郎は兄・家康と共に「影武者」としての過酷な修行に明け暮れていた。
「……五郎。辛い思いをさせるな」
「兄上、お気になさらず。これも徳川のためです」
完璧な主君を演じるため、個人の感情を殺し続ける日々。そんな五郎の凍てついた心を溶かしたのは、侍女として送られてきたお愛だった。
彼女が焚く白檀の香りと、「名前など、器にすぎない」という言葉。五郎は初めて、影武者ではなく一人の男として呼吸することを許された。
平八郎(忠勝)は、城務めの合間を縫っては、この別邸に忍び込んでいた。
「……五郎、顔色が悪いぞ。ほら、三河の山の実だ。城の飯は喉を通らんだろう?」
表向きは一介の家臣として振る舞うが、二人きりになれば幼馴染の顔に戻る。お愛の存在を誰よりも早く認め、二人の幸せを静かに、けれど苛烈に守り抜こうとする忠勝。
「五郎。お愛殿を悲しませるようなことがあれば、俺がこの槍でお前を突き出すからな」
冗談めかして笑う忠勝の瞳には、かつての寺で誓った「盾になる」という決意が、より深く宿っていた。
元亀三年、十二月。運命の歯車が、最悪の音を立てて回り出す。
武田の猛攻。家康は討って出たが、戦況は絶望的だった。
五郎は戦場近くの古い寺で、祈るように兄の帰りを待っていた。
そこへ飛び込んできたのは、血と泥にまみれ、理性を失いかけた石川数正だった。
「……殿が……家康公が、戦死なされた……!」
差し出された血染めの兜。五郎は絶叫しそうになるのを堪え、震える手でその兜を被った。
「……僕が、家康になる。影として、徳川を……!」
無理に声を低くし、主君を演じようとする五郎。
だが、その直後に寺の門を蹴破って現れた忠勝だけは、五郎の絶望を見逃さなかった。
「五郎!!」
平八郎は五郎の肩を掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「数正殿、殿は俺が連れて行く! 命に代えてもだ!」
雨と風が吹き荒れる中、忠勝は五郎を強引に馬に乗せ、浜松城へと駆け出す。
「鍋、放せ! 僕は影だ! 影が生き残っても意味がない。……兄上の、本物の家康公の後を追わせてくれ……!」
五郎の泣き言を、忠勝の咆哮が遮った。
馬上の忠勝は、迫りくる武田の追っ手を一瞥し、かつて一度も言えなかった、けれど心に秘め続けてきた「あの言葉」を、夜の嵐に叩きつけた。
「影だろうが本物だろうが関係ねえ! 殿の影はこの俺が守る! 影なくして光なし……あんたが死ぬ時は、この俺が死ぬ時だ! 誰も、俺の兄弟に指一本触れさせねえぞ!!」
その叫びは、寺での誓いを、泥の中の約束を、すべて飲み込んで黄金の光となった。
背中に感じる忠勝の体温と、絶望を打ち砕く声。
五郎は、兜を深く被り直した。
もはや、ただの影ではない。この最強の男が「光」と認めた男として、地獄を歩み抜く決意が、雨の中で静かに固まった。
——【監督からの特別大サービス・おまけの追記】——
それから、二十八年の歳月が流れた。
六条河原での処刑を間近に控えた、冷え切った牢。
三成は、乱れた髪のまま静かに座していた。
そこへ、具足を鳴らして一人の武将が現れる。
本多平八郎忠勝。戦場で一度も傷を負ったことのない、徳川最強の盾である。
忠勝は三成の前に立つと、いつも肌身離さず持っている蜻蛉切を傍らに置いた。それは、武人としての武装を解き、一人の男として向き合うという、無言の誓いだった。
「……本多平八郎か。私を嘲笑いに来たのか?」
「……三成。貴殿に、頼みがある」
三成の冷ややかな問いに対し、忠勝は地を這うような低い声で応えた。そして、戦国無双の勇将が、泥の中に膝をつくようにして、格子越しに三成を見据えた。
「俺と五郎……いや、殿はな、三河の寺で一緒に育った。泥だらけになって、干し柿を半分こにして、二人で笑い合った仲だ」
忠勝の瞳には、かつての寺での思い出が、滲むような熱を持って宿っていた。
「あいつは、十五の冬に自分の名(五郎)を捨てた。十七から別邸に籠もり、兄の影になるために己の感情を殺し続けた。そして……二十四のあの雨の夜、死んだ兄の身代わりとなって、完全に自分自身の人生を終わらせたんだ」
忠勝は拳を固く握りしめ、三成に一歩詰め寄る。
「俺はあいつの盾になると誓ったが、あいつの心までは守ってやれなかった。お愛殿を失い、影武者という巨大な嘘の中で、五郎の魂はずっと独りで震えていたんだ」
「だがな……お前が現れた。お前だけが、家康という器ではなく、中身の『五郎』を見てくれた。あいつが、三十年近くの嘘の中で唯一見つけた、本物の友達なんだよ。……三成、頼む。あいつを独りにしないでくれ。お前が死ねば、五郎はもう二度と、一人の人間に戻れなくなる」
「……何を……言っている。私は敗軍の将だ。生きて辱めを受けるより、義に殉じるのが私の——」
「義だと? 笑わせるな!」
忠勝の咆哮が、牢内に響く。
「友の孤独を救うことより、己の面目を優先するのが貴殿の『義』か? ……俺は、五郎の護衛だ。あいつの命を守るのが俺の役目だ。だが、あいつの『心』を救えるのは、この世にお前しかいないんだ。……死なないでくれ、三成。別の『誰か』として、泥を啜ってでも、五郎のそばにいてやってくれ」
最強と謳われた忠勝が、あの日、三河の寺で五郎に薬を塗ってもらっていた時のような、剥き出しの涙を瞳に溜めて三成を見つめている。
三成は、その「友情」という名のあまりに重すぎる、非論理的な願いに、言葉を失った。




