【打ち上げ編・忠勝パラレル前編:三河の雪と、泥の誓い —— 「影」が生まれた夜】
永禄の初め。
三河の山深く、世俗を拒むように建つ古寺に、二人の少年の声が響いていた。
「はぁっ、たあっ!」
若木のようなしなやかさで木刀を振るうのは、本多鍋之助。対する五郎は、鋭い踏み込みをいなし、半歩退いてその勢いを受け流した。
「……五郎! また逃げたな! 正面から打ち合えと言っているだろう!」
「鍋、君の力に正面から付き合うほど、僕は馬鹿じゃないよ」
五郎は涼しい顔で汗を拭う。
叔父・本多忠真の指導は苛烈だった。鍋之助には「古今独歩の武」を、五郎には「盤面を支配する理」を。
「五郎は鍋之助の目となり、鍋之助は五郎の牙となれ」
それが忠真の口癖だった。
稽古の帰り道、鍋之助が五郎を投げ飛ばそうと足を取った瞬間、五郎が仕掛けていた「薬草を掘り返した後の泥濘」に二人は揃って突っ込んだ。
「あはは! 見ろよ鍋、全身泥だらけだ」
「笑い事か! ……だが、お前の仕掛けた罠なら、負けても悔しくないな」
泥だらけの顔で見つめ合い、二人は腹の底から笑った。わずか一歳差の二人にとって、五郎は守るべき主君ではなく、共に泥にまみれる「たった一人の兄弟」だった。
その「平穏」が終わりを告げたのは、五郎が十五歳になった冬のことだった。
雪が静かに積もる夜。古寺の門を叩いたのは、叔父の忠真だけではなかった。
「……初めて会うな、五郎」
灯明の下に現れた男を見て、五郎は息を呑んだ。 そこには、自分と瓜二つの顔をした青年——兄である家康が立っていた。
傍らには、石川数正と酒井忠次の姿も影のように控えている。
家康は歩み寄ると、震える手で五郎の肩を包み込むように抱き寄せた。
「……一人にして、すまなかった。今までその存在すら知らなかったとはいえ、寂しい思いをさせたな。お前は私の、たった一人の弟だ。……これからは私と一緒に暮らそう。二人で共に、徳川を歩むのだ」
その言葉は、臆病なほどに優しく――そして、五郎の人生を永遠に「影」へと沈める残酷な響きを帯びていた。 五郎はその手を握り返し、静かに頷く。己の血に刻まれた宿命を受け入れた瞬間だった。
広間の外、縁側の暗がりに控えていた鍋之助は、拳を血が滲むほど握りしめていた。
数正たちが去った後、彼は雪の積もる庭に降り、五郎の前に進み出た。かつての幼馴染は、今や「徳川の影武者」という名の機密そのものとなっていた。
「……五郎。いや、殿」
「鍋、その呼び方はやめてくれ。僕はただの影だ」
「いいえ。俺にとっては、あんたが本物だ」
彼は雪の上に膝をつき、三河の凍てつく夜空を見上げた。
幼き日の「鍋之助」は、この瞬間、たった一人の友を守るためにその名を捨てた。
「あんたが影を背負うなら、俺はその影に潜む魔をすべてなぎ倒す。誰が何と言おうと、この本多平八郎忠勝が、あんたを『徳川家康』にしてみせる。……あんたが泣きたい時は、俺が代わりに戦場で吼えてやる!」
五郎は、忠勝の広くて熱い背中に、三河の泥にまみれたあの日の温もりを見た。
これが、二人が交わした最初にして最後の「対等な誓い」であった。




