最終章 『希望なき結末』②
十五分後。総合病院に優一郎は姿を現した。
病院の敷地内に報道関係者はいなかった。
まだ小百合は殺されていないのだろうか。いや、遺体が発見されていないだけかも知れない。優一郎は、足早に院内のエレベーターに乗り込んだ。
五階のボタンを何度も押す。その顔には、焦りの色が窺われた。小百合の生死などは問題ではなく、「人形に会いたい」との一念で彼は急いでいた。
五〇一号室の前には相変わらず二人のボディガードが立っていて、中に入ろうとする優一郎を手で制した。
「警察の方でも今はご遠慮ください。お嬢様は、ご就寝中ですので」
ひそひそと声をかけてきたのは、小山と二人でここにきた時と同じ男だった。
「放っておいたら、永遠にご就寝になるかも知れないんだぞ。退け!」
強引に二人を押し退けると、優一郎は室内に入った。
窓際のベッドで、小百合は眠っていた。
布団は腰の辺りまでしかかけられておらず、赤い寝間着の上半身が見えた。初めて彼女を見た時は、確か白いシルク地を着ていたはずだ。
「着替えたのだろうか?」そう思いながら小百合へと近づいた優一郎は、ベッド脇の床に同じ赤色を見つけた。
……血だ。
予想していなかったわけではない展開に溜め息をつく優一郎の背後で、
「うっ、うわぁ」
「ひぇ」
と、悲鳴とも叫びとも取れない二つの声が聞こえた。彼のあとについて部屋に入ったボディガードたちの声だ。
振り返り、「煩い」と言わんばかりにひと睨みすると、優一郎は告げた。
「現場は、警察が押さえます。速やかに部屋を出てください」
殺人現場など一秒たりとも長居はしたくないものだ。そそくさと、二人は病室を去って行った。
室内には、優一郎と小百合の遺体だけが残った。
「くそ、遅かったか」
周囲を見回し、優一郎は呟いた。人形は、既に部屋からいなくなったあとだった。
人形の行方を知り得る手がかりが残されてはいないかと、彼は遺体を調べてみることにした。
小百合は、全身を滅多刺しにされ、死亡していた。床だけでなく、壁にも数か所の飛沫痕が見られたが、血液の殆どは、服とベッドに染み込んだという感じだ。その血液と天井を向いたままの小百合の顔を交互に見比べながら、優一郎は、妙な違和感を覚えた。
しかし、それが何なのかは分からなかった。
「いずれにせよ、人形の行方とは関係がないだろう」そう判断した彼は、次に、指の数を確認した。小百合の指は、九本全てが揃っていた。二度目の『指切り』はしていないようだ。
結局、小百合の遺体から読み取れるものは何もなかった。
彼は、仕方なく鑑識に連絡することにした。
三十分後。優一郎は、病院の敷地内にある遊歩道のベンチに腰をかけていた。
「エーコは、どこへ行ってしまったんだ」木漏れ日を見上げながら、彼はそれだけを考えていた。
「真中警部」
突然声をかけられ、優一郎は慌てて顔を上げた。
目の前に立っていたのは知らない男だったが、服装から鑑識の人間であることだけは分かった。同じ県の警察官であっても、その全員と面識があるわけではない。いや、寧ろ、知らない者のほうが多いのである。
「どうしました?」
立ち上がり、優一郎はたずねた。
「私、水嶋と申します。鑑識見通しについて、報告に上がりました」
「随分と早いですね」
「あ、全てが終わったわけではなく、分かったことだけの報告です」
「なるほど。お願いします」
現場に人形の行方を知る手がかりはなかった。それが分かっている優一郎にとって、鑑識の報告など本当はどうでもよかったのだが、一応そう言っておいた。
「はい。被害者の城崎小百合さんですが、死因は失血性ショック死。ベッドの下から果物ナイフが発見されましたので、一連の事件同様、凶器にはこれが使われたものと考えられます。刺し傷の数は、重なっているものもあって正確には分かりませんが、約百か所。つまり、相当な恨みを持った者の犯行だと推測されます。しかも、心臓はもちろん、大腿部の動脈や顔や首など、瞬時に致命傷となる箇所は全て避けて刺しています。犯人は、被害者を苦しめて殺そうと、そうしたのでしょう」
顔や首に傷がない。小百合の遺体を見た時に、優一郎が妙な違和感を覚えた理由はそれだった。他の部分に比べて、顔の血の付着があまりにも少ないと思ったのだ。血液の殆どが飛び散らずに服やベッドに染み込んでいたのは、大きな動脈を避けて刺したからだ。それだけでなく、事前に血液を凝固させる薬剤を投与していた可能性もある。ここは病院で、犯人はあの人形なのだ。何をやっていたとしても不思議ではない。
「他には?」
優一郎は先を促した。
「犯行時間ですが、これはかなり絞り込めました。十二時半に看護師が食事を運んだ際、眠っている被害者の姿を確認しています。そして、真中警部が遺体を発見されたのが十三時半ですので、その一時間と考えて間違いありません」
正確にはまだ限定できることを優一郎は知っていたが、当然、何も言わなかった。
「他にありますか?」
「いいえ。あ、そうだ。指紋は場所が病室なだけに様々なものが検出されていて、鑑定に時間がかかると思われます。判明し次第、報告させていただきます」
「ありがとうございます」
「それでは、私、仕事に戻りますので」
「ご苦労様でした」
院内へと歩いて行く水嶋を見送ると、優一郎はうなだれる様にベンチに座り、深く溜め息をついた。
依然として人形の行方が摑めない今、優一郎の選択できる道は、二つだ。
ひとつは、父親を殺した野々宮を不問に付すこと。もうひとつは、玉砕覚悟で捜査本部に乗り込み、そこにいる野々宮を殺めること。
優一郎は考えた。
確かに、親父は、野々宮の言葉どおり、彼や他の警察官の手柄を横取りしていたのかも知れない。だが、そんな男でも、自分にとってはかけがえのない父親だ。その殺害を依頼した野々宮を、どうして許すことができようか。
彼は、ひとつ目の選択肢を消した。
残された道は、自らの手で野々宮を殺すことだが、一体、どうやって? 相手は、鉄壁の防御がされているとも言える場所、警察署に居るというのに……。
八方塞になった優一郎は、悔しそうに呟いた。
「エーコさえ、いれば……」
「は~い。エーコ、ここにいるよ~」
尻の下から声がした。座った姿勢のまま、優一郎は足の間からベンチの下を覗いた。
光景は逆様だったが、そこにはしゃがんで手を振る人形の姿が、確かにあった。
「エ、エーコ!」
歓喜しながら、優一郎は人形の名を呼んだ。
「よっこいしょ」
ベンチの下から這い出した人形は、優一郎の隣に腰を下ろした。
「“かんしきのおじさん”がいたから、でるにでられなくて。あ~あ、つかれた」
人形は、トントンと肩を叩いた。
「なぁ、エーコ」
「ん?」
人形は優一郎を見上げた。
「俺も、エーコに仕事を頼めるのか?」
「もちろんだよ。エーコね、いま、“しつぎょうちゅう”なの。でもね、“おじさん”が“やといぬしさま”になってくれるとおもって、ここにきたのよ」
「おじさんはやめてくれ。俺は真中優一郎だ」
そう言いながらも、彼の頬は緩んでいた。
じりじりと優一郎に擦り寄り、人形はたずねた。
「それで、ゆういちろうがうらんでいるひとは、だれ?」
「野々宮茂だ」
「ころすほうほうは?」
「方法は、任せる。ただし、ひとつだけ約束してくれ」
「おやくそく? どんな?」
「“野々宮と会話をせずに殺すこと”だ」
「エーコ、おしゃべりだいすきだけど、わかったよ」
その後、依頼内容を復唱し、優一郎がそれに同意したのを確認すると、人形は、
「じゃあ、『ゆびきり』ね」
と、身を乗り出した。
「それなんだが、三日だけ待ってくれないか?」
頓狂なことを言い出す優一郎に、人形は一気に興醒めした様子で言った。
「“ほうしゅう”の“あとばらい”は、だめだよ」
「いや、違うんだ。野々宮を殺すのは『指切り』をしたあとで構わない。ただ、それを、三日後にして欲しいと頼んでいるんだ」
「どうして?」
「東京にいるお袋と会って、親父の墓参りもしてこようと思っているんだ。そういうことは、『指切り』前のほうがいいだろう?」
「ふ~ん。わかったよ。まってあげる。それにしても、ずいぶんな“こうこうむすこ”だね」
頻りに感心している様子で、人形が短い腕を組む。
それには聞こえぬほどの小さな声で、優一郎は呟いた。
「いや、俺は、“親不孝”だよ」
三日後のこの時間、このベンチで落ち合うことを、優一郎と人形は取り決めた。
「かならずきてね。こなかったら、“よわむしくん”ってよぶからね」
最後に念押しした人形は、風のようにその場から消えた。
優一郎は立ち上がると、病院の正門へと歩き出した。
少し向こうから、こちらにやってくる車椅子の老女と、それを押す鳥打帽を被った老人の姿が見える。
優一郎と擦れ違う時、軽く会釈をした二人だったが、彼がそれに気づくことはなかった。
三日後、真中優一郎は『指切り』をした。




