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指切り  作者: 直井 倖之進
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第三章 『雄介の死』⑤

 午後九時二十分。

 遠くから微かに聞こえるパトカーのサイレンを耳にしながら、真澄は、自宅マンションへと戻った。病院へ行く時、確かに鍵をかけたにも拘らず、人形は、リビングに寝転んでテレビを見ていた。

「おかえり」

 彼女の帰りを待ちかねた様子で、人形が立ち上がる。

「エーコ、どうやって部屋に入ったの?」

 そう真澄が問うと、人形は腰をくねらせ、(しな)を作って答えた。

「ひ・み・つ。おんなには、ひとつやふたつ、ひみつがあったほうがいいでしょう?」

「……」

 真澄は黙って人形を見下ろした。

「あ、そうだ。そんなことより、きいてよ。ますみのうらんでいるひと、あさぎりゆうすけをころしてきたよ。まだニュースにはなっていないみたいだけど」

 さらりと告げた人形の言葉には真実味がなく、鵜呑みにできずに真澄は聞き返した。

「本当? 本当に雄介、……死んだの?」

「うん。“よていどおり”にね。ナイフでくびをさしたら、しんじゃった」

 その後、身ぶり手ぶりを交えて人形は、雄介の最後の様子を詳細に伝えた。

 事前に写真などを見ていなかったため本人かどうか分からず、名前を聞き出すのが特に大変だったと人形は語った。

 そして、話は、雄介殺害後まで進んだ。

「それでね、エーコのことを“きたない”だとか“くさい”だとかいうから、おせんたくしてきたのよ。どう? きれいになったでしょう?」

 人形は、真澄によく見えるよう振り袖をひらひらさせ、くるりと回って見せた。

 着物の揺れで風を受けた真澄は、人形の変化を視覚よりも先に嗅覚で感じ取った。

 「この臭いは、……血」彼女は直感でそう思った。初めて人形を手にした時から錆びた鉄のような臭いはしていたが、その臭気は、以前とは比較にならぬほど強くなっていた。

 漂う臭いに顔を背けたくなるのを堪えつつ、着物を観察する。

 真澄は気づいた。黒ずむ斑模様は、乾燥した血液なのだということに。

「エーコ。貴女、まさか、雄介の血で遊んだの?」

「あそんだわけじゃないよ。おせんたく、だよ。エーコのきもの、はじめは“まっしろ”だったんだけど、いろんなひとの“ち”で、なんどもおせんたくするうちに、こんなにきれいになったのよ」

「きれいに、って……」

 真澄は二の句が継げなかった。

 人形が身に纏っている衣。それは、これまで葬ってきた者たちの血液で染めた、血染めの着物だったのである。

 何度も深く呼吸をしてから、ようやく真澄は言った。

「エーコ、何てことを」

「え? “あさぎりゆうすけをころして”っておねがいしたのは、“やといぬしさま”なのよ。エーコは、“しようにん”の“おしごと”をしただけ。いまごろ“こうかい”しても、もうおそいのよ」

 人形が、白い目をして見据える。

 真澄は大きく首を振った。

「違う。そうじゃなくて、着物を雄介の血で染めたことよ。どうしてそんなことをしたの?」

「だって、しんだひとに、“ち”は、いらないじゃない。うらんでいたひとの“ち”なら、なおさらでしょ?」

 人形はさらりとそう答えた。

「だからって、雄介の血を……」

 言葉に窮し、真澄はここでようやく、「エーコの言うとおりだった」と自覚した。

 彼女は、雄介の殺害依頼を後悔していたのである。

 雄介の死。それは、確かに真澄が願ったことだった。雄介が死ねば、暗き淵に沈み込んだ自分の心は、光溢れる場所へと導かれるのだと、彼女は信じて止まなかった。

 しかし、それは愚かな妄想だった。人形から「雄介を殺した」と聞かされても、真澄に達成感や喜悦感はなかった。いや、それどころか、恨みを晴らす前よりも彼女の心は、さらに深い闇の中へと堕ちていたのである。

 そんな真澄の気持ちを他所(よそ)に、人形は、自分の首につけた物をひけらかして言った。

「まぁ、いいや。“プレゼント”も、もらっちゃったし」

「それって、アンクレットよね」

 (いや)(おう)もなく目に入ってくるそれを真澄が指さす。

「“あんくれっと”って?」

 人形はたずねた。どうやら名称やつける箇所などは知らずに、見た目だけで気に入り、一番目立ちそうな首につけていたようだ。

「それはね、アンクレットっていって、足首につけるのよ」

 そう真澄が教えると人形は、

「へぇ、アンクレットかぁ。いいもの、もらっちゃった!」

 と、飛び跳ねて喜んだ。

 その様子が気になり、真澄は聞いた。

「ねぇ、エーコ。それ、誰から貰ったの?」

「あげないよ!」

 真澄が欲しがっているのだと勘違いした人形は、両手で自分の首を隠した。

「要らないよ。要らないから教えて。誰から貰ったの?」

 もう一度、真澄が問う。

 人形は少し悩んでいたが、彼女の気迫に()され、やがて小さな声でその名前を白状した。

「あさぎり、ゆうすけ」

「本当に? 本当に、雄介から貰ったの?」

「う、うん、そうだよ」

 何とか返事だけはしたものの、人形は真澄と目を合わそうとはしない。

「嘘」

 凛とした声でそう告げ、真澄は人形を睨んだ。

「ほ、ほんとだよ。ゆうすけが、“かわいいエーコに、おにあいだよ”って、くれたのよ」

「嘘」

 真澄は、再び突き放した。

「うっ。えっと、え~とね」

 必死に言いわけを考える人形。だが、すぐに諦め、本当のことを話し始めた。

「ますみ、おこらないでね。テーブルのうえのふくろにはいっていたのを、かってにもってきちゃったの」

「袋に入っていた、って、それ、今日雄介が買った物じゃないの?」

「……たぶん」

「そんな物がここにあったら、拙いよね?」

「……たぶん」

「多分、じゃなくて絶対に拙いの! だって警察は、間違いなくここにも話を聞きにくるんだから!」

 そう怒鳴ったあと、真澄は自分の言葉に大きく身震いした。

 そうなのだ。確実に警察はここへくるのだ。挙式の十日前になって別れを告げられている自分は、誰の目から見ても雄介殺害の動機十分なのだから……。

「まったく。アリバイを作っておくように言ったのは、エーコなのに」

 怒りが治まらない真澄が、更にそう追い討ちをかける。

 だが、

「……ごめんなさい」

 と、すっかりしょげている人形を見ているうちに、次第にその熱は冷めていった。

「いいよ、もう。終わったことは、仕方ないんだし」

 真澄は人形に微笑みかけた。

「ほんと? ゆるしてくれるの?」

「えぇ。でも、約束して。もう絶対に、“嘘はつかない”って」

「わかった。エーコ、もう“うそつかない”よ。ゆるしてくれる?」

 真澄が頷くと、人形はいつもの屈託のない笑顔に戻った。

「ありがとう。それで、ますみは、“あのあと”なにをしてたの?」

 “あのあと”というのは、『指切り』の儀式を終えて人形が部屋を出たあと、という意味だろう。そう判断した真澄は、家を出てからの行動を大まかに伝えることにした。


 『指切り』をしてから総合病院へ行き、小指の処置を終えたのが、午後四時。その後、五時まで遊歩道のベンチで老夫婦と会話をした。

 それから駅のほうへと場所を変え、五時二十分から約一時間、商店街のブティックをあちこち覗いたが、結局、何も買う気にはなれなかった。

 六時半。駅から歩いて十分ほど離れたバー“Bee”に入った。開店したばかりで客の姿はなかったが、マスターから顔を覚えられているこの店はアリバイ作りに都合がよいと考え、ソフトドリンクと軽食で二時間半、九時までの時間をそこですごした。ソフトドリンクにしたのは、アルコールのせいで、再び指が痛みだすことを恐れたからだ。

 “Bee”を出たあとは、真っ直ぐ駅に戻って九時十分にタクシーを拾い、九時二十分に自宅に戻った。


「ということは……」

 右手を頬に当てた人形は、一度天井へと浮かべた視線を戻し、続けた。

「ゆうすけがしんだとき、ますみはバーにいたのね」

「うん。そうよ」

「そして、そこには、ますみをしっているひとがいた」

「えぇ」

「“かんぺき”ね。ますみのアリバイ」

 満足そうに人形が微笑む。

 ところが、意外にも真澄は首を横に振った。

「いいえ。まだよ」

「え? まだ、やりのこしたことがあるの?」

 「なんだろう?」と悩む人形に、真澄は、そっと右手を伸ばした。

「やり残したこと。それは、エーコの……処分よ」

 そう言うと同時に、真澄は人形の頭を撫でた。

 それはあまりに突然の出来事だった。そのため、驚きで目を見開いた表情のまま、人形はその動きを止めた。


 十分後。

 人形を元の桐箱に仕舞った真澄は、ひと月以上放っておいた部屋の掃除を始めていた。動けば気分転換になると思ったからだ。

 黙々と掃除機を扱いながら彼女は心に決めた。「人形を捨て、全てを忘れよう」と。

 彼女の中で、人形を証拠に自首するという選択肢はなかった。刑に服するということは、自らの犯した罪の責任を取り、反省するということだからだ。

 嘘をついたのは雄介で、裏切ったのも雄介なのだ。それなのに、刑務所の塀の中で一体何を反省しろというのか。

 人形に雄介殺害を依頼したことを後悔している真澄だったが、反省はしていなかった。“後悔=反省”という公式は、必ずしも成り立つとは限らないのである。

 

 掃除の最中、何かを見つけた真澄は、掃除機を片隅に置き、代わりに雑巾を持ちだした。

 そして、彼女は、

「私は、悪くない」

 そう呟きながら、フローリングの一部分を丁寧に拭き始めた。

 そこは、昼に、『指切り』の儀式を行った際、血溜まりができた箇所だった。

 既に凝固し、なかなか拭い去れない血液を必死に消そうとしているその姿は、まるで、過去の自分の行いを洗い流そうとしているかのようだった。

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