003 退院
入院は一か月に渡った。
その間、何度も警察関係者が病室を訪れ、事件のことを聞いてきた。
犯人はまだ捕まっていない。
目撃情報もなく、凶器も見つかっていない。
彼らにとって、俺の証言だけが頼りだったようだ。
だが残念ながら、俺の記憶は曖昧だった。
薄暗い路地裏で、突然刺されたんだ。
犯人の様子や特徴など、捜査の助けになるようなことは何ひとつ覚えていなかった。
黒っぽい服装だったと思います。そんなことぐらいしか話せなかった。
事情聴取は続いた。
しかしどれだけ聞かれたところで、覚えていないことを思い出せる訳がない。
あの時感じていたのは、やっと解放されるという喜びだけだったのだから。
長引く聴取に苛立つ。これじゃまるで、俺が悪いみたいじゃないか。
そんなストレスを感じながら、俺の入院生活は続いた。
そんな中。
俺の心の支えになったのはあの看護師、水無月真夜の存在だった。
彼女は俺の担当ということもあり、休み以外は毎日病室を訪れ、俺に寄り添ってくれた。
こんな風に人と触れ合うの、いつぶりだろう。
気がつけば、俺は彼女の訪室を楽しみにしていた。
そして。
そんな自分を俯瞰し、馬鹿だと思った。
退院の日。
俺は下着などの少ない荷物を手に、エレベーターへと向かった。
エレベーターの前には、ナースステーションがある。
看護師たちは俺に気づくと笑顔を向け、挨拶してきた。
「退院おめでとうございます」「しばらくは安静にしてくださいね」そんな言葉に見送られながら、俺は水無月真夜の姿を探した。
そんな俺の様子に気づいた看護師が、申し訳なさそうな顔で伝えてきた。
「水無月さん、ですよね。すいません、彼女は今日、急な用事で休みをとってるんです」
その言葉に一瞬、体が重くなるのを感じた。
しかしすぐに笑顔を作り、
「そうですか。水無月さんには特にお世話になりましたので、最後にお礼を言いたかったのですが。僕がお礼を言っていたこと、伝えてもらえますか」
そう言った。
その看護師は、「はい、伝えておきます」恐縮気味にそう言ってうなずいた。
「……」
病院から出ると、風が心地よかった。
たかが風ひとつでこんな風に感じれる。それだけで、長かった入院生活が無駄じゃなかったような気がした。
考えてみればこの一か月、これまで経験したことのないことの連続だった。
人によっては、入院生活とは退屈の代名詞なんだろう。しかし俺にとって、この一か月の日々は新鮮そのものだった。
俺に話しかける人間がいる。医師や看護師が俺を気にかける、当然のことであり、それは上っ面だけの虚飾にまみれた対応だ。そう理解はしている。それでも俺にとってその嘘は新鮮であり、何物にも代えがたい貴重な体験だった。
特に水無月真夜に対しては、何か特別な感情を勘違いしてしまうほど、依存している自分を感じていた。
人生を諦めている、そんなことを話した相手は初めてだった。そしてそんな俺に対し、説教してきた人間も初めてだった。
こんな会話には意味がない、そう分かっていた。それでも俺の中には確かに、彼女のことをもっと知りたいという欲求があった。そして彼女もまた、俺を理解したいという強い意志のようなものを持っている、そんな風に思っていた。
だからこそ、今日彼女がいないことに失望した。
望むから失望する。分かっていたことだ。
だから俺はこれまで、望むことを放棄していた。
それなのに望んでしまった。
その結果がこれだ。
長年育んできた俺の哲学は、やはり間違ってなかった。そう思い、唇を歪めた。
「……」
タクシー乗り場を通り過ぎ、病院の敷地から出る。
家まではここから徒歩で10分。歩くとまだ腹が痛んだ。
だがいいリハビリになる。ついでに近所のスーパーに寄って、食材を買っておこう。
そう思い、ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
その時だった。
「退院して最初にすることが、喫煙なんですか?」
背後から、呆れた口調の声がした。女の声だ。
いや。
この一か月、いつも待ち望んでいた声だ。
そう思い振り返ると、そこにはあの看護師、水無月真夜が私服姿で立っていた。
「全く……平田さん、健康になりたいって考えはないんですか」




