010 真実
「真夜さんが、どうしてそれを……」
真夜が手にしたナイフに、頭が混乱する。
そんな俺を見つめ、真夜がつぶやいた。
「植田浩輔」
「なっ……」
彼女の言葉に目が見開く。
「当然ご存知ですよね、修司さん」
「どうしてその名を……」
植田浩輔。
忘れもしない、親友の名前だ。
俺が見捨てた男。
全てに絶望し、自ら命を絶った友の名だ。
混乱する俺に、真夜が小さく微笑む。
微笑むと同時に涙が落ちた。
「植田浩輔は……私の兄です」
「え……」
彼女の言葉が理解できなかった。
「苗字が違うから、分かりませんでしたか? 私の両親はお兄ちゃんが死んでしばらくして、離婚したんです。私は母さんについていったので、苗字が変わったんです」
「……」
親友。
浩輔に妹がいることは知っていた。
しかし直接会ったことはなく、葬儀の時に遠目で見ただけだ。
だから失念していた。
まさか真夜が、浩輔の妹だっただなんて。
その事実に混乱し、動揺する。
そんな俺に向かい、真夜はもうひとつの真実を告げた。
「あの時、路地裏であなたを刺した通り魔。それは私です」
「……」
嘘だ。
そんなバカなこと、ある訳がない。
だって真夜は、自暴自棄になっていた俺を叱ってくれたじゃないか。
生きることを諦めるな。未来に希望を持て、そう言ってくれたじゃないか。
毎日食事を作ってくれて、俺に生きる喜びを感じさせてくれたじゃないか。
その彼女が通り魔?
浩輔の妹?
思考が追いつかず、パニックになった。
「お兄ちゃんはね、本当に優しい人だったの。頼りないところもあったし、すぐ謝る癖は嫌いだった。でも……お兄ちゃんはいつも私を守ってくれた。愛してくれた」
「……」
「学校でいじめにあってること、なんとなくだけど気づいてた。でもそんな時でもお兄ちゃん、私の悩みを聞いてくれた。励ましてくれた。本当は自分のことでいっぱいいっぱいだったのに」
ぽつりぽつりと涙が落ちる。
「そんなお兄ちゃんが死んで……私の中に邪悪な気持ちが生まれたの。あんなに優しかったお兄ちゃんを死に追いやった、やつらを絶対許さない、そう思った。そして……いじめていたやつらはみんな、それぞれ法の裁きを受けた」
「……」
「あんな制裁じゃ納得できない、そう思った。でも残念だけど、私一人じゃどうすることもできない。それにやつらはネットで顔が晒され、一生消えることのない刻印を刻まれた。これからどれだけ努力したところで、明るい未来が来るとは思えない。そう思って受け入れたの。そうするしかなかったの。
……でもお兄ちゃんが死んで、10年が経ったある日」
自虐的な笑みを浮かべる。
「部屋の掃除をしてる時、偶然お兄ちゃんの遺書を見つけたの。それがこの前聞いた、修司さんに宛てた遺書だった」
そういうことか。
だから10年も経ってから、俺に近づいてきたのか。
「修司さん。あなたは誰からも断罪されていない。法の裁きも受けていない。当然よね、実際お兄ちゃんに手を出した訳じゃないんだから。でも……
お兄ちゃんが死んだのはあなたのせい。あなたもこの前、そう言ったよね」
「ああ。間違いない」
「だったら! あなたも裁かれなくちゃおかしいでしょ! どうしてあなただけ、お兄ちゃんが生きていないこの世界で生きてるのよ!」
そう言ってナイフを握りしめ、肩を震わせた。
「……あの日あなたの後をつけながら、私は思った。ようやくこれで、お兄ちゃんの復讐が終わるって。お兄ちゃんは、あなたに生きてほしいと願ってた。でもそれは、お兄ちゃんの気持ち。私は違う。優しかったお兄ちゃんを死に追いやった修司さん、私はあなたを絶対に許さない、そう思ってた」
「……」
「そしてあの路地裏であなたを刺して……これで全てが終わる、そう思ったの。でも……
あの時あなたは笑ってた。ありがとうって私に言った」
「……言ったね」
「それを聞いた時にね、思ったの。駄目だ、今この人を殺しても復讐にならないって」
「……」
なるほど。
だからあの時、俺にとどめを刺さなかったのか。
納得だ。
救急車を呼んだのも、きっと彼女なんだろう。そう思った。
「あなたはずっと死を望んでいた。でも、自ら命を絶つことはお兄ちゃんが許してくれない。そんなあなたにとって、私の行動は待ち望んでいたことだった」
「……否定はしない」
「だから私は殺すのをやめた。死を受け入れてるあなたを今、殺しても意味がない。むしろあなたの望みを叶えることになってしまう。そんなのごめんだった。それなら生きる喜びを思い出し、死にたくない、生きていたいって思うようになるまで支え、幸せを感じるようになってから殺そう、そう思ったの」
これまでの自分に対する献身。その意味をやっと理解できた、そんな気がした。
「私が望むのは、死にたくないあなたを殺すこと。そしてようやく今、その時がきたの」
そう言って笑顔を作る。涙が止まらなかった。
「さあ修司さん、犯した罪を後悔しながら死んで。命乞いをする無様な姿を私に見せて。そしてお兄ちゃんの元に行って……永遠に謝罪し続けて!」
そう言って、真夜がナイフを振りかざした。
その瞬間。
さっきまでの幸せだった気持ちが、一気に冷めていくのが分かった。
そうか。
今日までの真夜との生活は夢、夢だったんだ。
そもそも俺が、人並みの幸せなんて望むべきじゃなかったんだ。
そんな資格、俺にはなかっただろ?
何の価値もない、ゴミ屑のような俺の命。
それが今、彼女の全てを賭けた復讐の生贄になれるんだ。
それって、これ以上にない誉じゃないか。
そう思った。
俺は唇を歪め、あの時と同じ言葉を囁いた。
「……ありがとう」
その言葉に。
真夜の動きが止まった。
そして。
さっきまでの激情が嘘のように、表情が凍り付いていった。
俺を見る視線。
それは興味を失った、蔑む視線になっていた。
そして。
やがて。
真夜は大きく息を吐いて立ち上がり、ナイフをポケットにしまうと洗面所に向かった。
「……」
状況が理解できず、困惑気味に体を起こす。
するとしばらくして、タオルで顔を拭きながら真夜が戻ってきた。
いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべて。
「とりあえず修司さん、着替えてきてください。それまでにカレー、温めなおしておきますね」
さっきまでのことが嘘のように、自然に振舞う。
そんな彼女を見て、思った。
ああ、そうか。
彼女の中で、今の俺は殺すに値しなくなったんだ。
死を受け入れている俺には、殺す価値がない。
無様に生に執着し、命乞いをする。
そんな俺でないと、殺す意味がないんだ。
そう思い、床に転がった指輪をテーブルに置き。静かに立ち上がった。
「分かりました。着替えてきますね」
「はい。待ってます」
いつもと変わらぬ会話。
さっきまでの全てがなかったような、互いの言葉。
そんな現実に苦笑した。
なんなんだ、この茶番は。
いや、おままごとは。
それからも、真夜との同棲生活は続いた。
左手の薬指には、あの日渡した指輪が光っている。
でも、籍は入っていない。
このおかしな日常を、互いに受け入れていた。
殺したいと望む女と、死にたいと望む男。
そんな俺たちは今日もまた、いつもと変わらぬ日常を送っていた。
「おはよう、修司さん」
「おはようございます、真夜さん。今日こそ俺を、殺してくれますか」
「ふふっ、駄目ですよ。あなたの顔、今すぐ死にたいって言ってますからね」
「ははっ、違いない」
他人が聞けば狂ってる、そんな会話を繰り返しながら。
俺たちの日常は続いた。
いつまで続くのか、それは俺にも分からなかった。




