011 いつから壊れていたんだろう
あれから。
どれだけの歳月が過ぎていったのだろう。
病室のベッドで横たわる俺の傍らには、慈愛の眼差しで微笑む真夜がいた。
美しかった黒髪には、ちらほらと白髪が見え隠れしている。
顔に刻まれた皺は、ほとんどが笑い皺だ。
それだけで、ひょっとしたら真夜は幸せだったんじゃないだろうか、そんな勘違いをしてしまう。
でも。
彼女にはまだ、果たせていない望みがある。
それを叶えてあげたい。
その為だけに彼女はずっと、俺に寄り添ってきたのだから。
「……真夜さん」
「はい、修司さん」
そう言った彼女は、いつもの笑みを向けてくれた。
「もうすぐ俺は死にます」
「そうですね。お医者様もそう言ってました」
「死ぬ前に真夜さんの望み、叶えたいと思ってます。どうですか、今すぐにでも」
俺の言葉に、真夜が驚いた顔をする。
そして小さく笑い、囁くように言った。
「駄目ですよ修司さん。このセリフ、一体何度言ったかしら。私が殺したいのは、生に執着しているあなたなんです。今のあなたのどこに、その執着がありますか」
「はははっ、確かにそうですね」
「そうですよ、ふふっ」
窓から注がれる風が心地よかった。
「今のあなたは、運命の全てを受け入れた顔をしています。そんなあなた、手にかける価値なんてないですよ」
「はははっ、もうすぐ死ぬ老いぼれに向かって、辛辣ですね」
「当然ですよ。だってあなた、私の期待を散々裏切ってきたんですから」
「はははっ、違いない」
「ふふふっ」
窓に視線をやり、小さく息を吐く。
「……申し訳なかったと思ってます。俺も真夜さんの期待に応えたくて、そういう自分になれるよう心がけてきました。でも……どうやら最後まで、死にたいって気持ちを消すことができませんでした」
「あなたにとってそれが、兄の呪いだったのかもしれませんね」
「呪い……そうですね。そうなのかもしれません」
「修司さん。亡くなる前にひとつ、聞いておきたいことがあるのですが、かまいませんか」
「ええ。なんでも答えますよ」
「あなたにとって、この人生はどういうものでしたか」
「人生、ですか……そうですね。俺の人生は、浩輔を失ったあの日に一度終わりました。それからの日々はある意味、死にきれず生かされていたって感じです」
「そうなんですね」
「ですが……」
そう言って真夜の手を握ると、彼女も握り返してきた。
「真夜さんのことだけは、俺にとっての幸せでした。あなたと出会えたことで、俺の灰色だった人生に彩が宿りました」
「ふふっ、おだてても何も出ませんよ。殺してもあげません」
「そうですね、ははっ……ただ俺は、あなたを愛することができなかった。それだけは辛かったと思ってます」
「そうなんですか? 確かプロポーズの時、愛してると言ってくれたと思いますが」
「あの時は、あなたが浩輔の妹だと知りませんでしたから」
真夜が優しく俺の手を撫でる。
「あなたを愛したかった。あなたと出会ってから今日まで、俺はあなたとの生活を心から楽しみました。幸せでした。でも……
それを認める訳にはいかなかった。認めてしまえば、浩輔の自殺を受け入れることになってしまいますから」
「……」
「浩輔の自殺が縁となり、あなたと出会いました。あなたを愛してることを認めてしまえば、浩輔の自殺が必然だったと認めることになってしまいます」
「そうですね」
「ですから……正直ずっと、苦しかったです。あなたを想えば想うほどに、浩輔が自殺してよかったと認める自分を感じてしまいますから。だから一日も早く、あなたに殺してもらいたかった」
「ふふっ。もうすぐお迎えが来る人の言葉とは思えませんね」
「はははっ、全くです。でも……もし浩輔が生きていて、その上であなたとこうして出会っていたら……どれだけ夢想したか分かりません」
「では修司さんの人生は、ずっと苦しかったと」
「あなたを想う気持ちが強くなるほどに、辛かったです。だから今、最後の時が目の前に来て、ほっとしています」
「……私もですよ」
「……」
「不思議な縁であなたを知り、出会い、共に暮らして……いつあなたを殺せるのか、それだけを考えて生きてきました。でも結局のところ、私も弱い人間なんです。復讐心をずっと燃やし続けて生きていくなんて、できる訳がありません。
あなたと過ごした日々は、穏やかで心地良いものでした。あなたと出会えてよかった、同じ時を過ごせてよかった、そう思ってました」
「……」
「でもそれは修司さんが言ったように、兄の死を認めることになってしまいます。それを思うと私も、心が苦しくなりました」
「……俺は浩輔だけでなく、あなたまで不幸にしてしまったんですね」
「不幸を感じるということは、幸せがあったということでもあります。全て自分で背負うことはないんですよ」
そう言って微笑み、頭を撫でてくれた。
その心地良さ故か、少し眠くなってきた。
「真夜さん……俺が死んでからも、あなたの人生は続きます」
「そうですね。あなたと違って、健康に気をつけてきましたから」
「はははっ、そうですね。ですから真夜さん。どうかこれからの余生、幸せに生きてください」
「ありがとうございます。修司さんもどうか、あの世でも穏やかに過ごしてくださいね」
そう言って、額に優しく口づけしてくれた。
その温もりに。
心が満たされて。
俺は。
平田修司は。
人生を完結させた。
「……」
49日を終えた真夜は、修司の遺骨を胸に兄、浩輔の墓に向かった。
目を瞑り、手を合わせ。静かに囁く。
「……お兄ちゃん。修司さんはもう、そっちに行ったかな。妹としては複雑なんだけど、二人が仲良くしてくれてると嬉しいな」
微笑むと瞼が濡れた。
「修司さん、言ってたよ。ずっと苦しかったって。その言葉を聞いてね、思ったの。私はお兄ちゃんの復讐を果たす為、修司さんと暮らしてきた。でも私が手にかけなくても、修司さんはずっと苦しんでいた。むしろ私が傍にいたことで、過去の後悔が強くなっていった。分かってた、分かってたんだけど……あの人との生活が心地よくて、私はその事実から目を背けていたの。
ねえお兄ちゃん。修司さんはもう十分、苦しんだと思う。そして私も同じくらい、苦しんだ。だからお兄ちゃん。これで終わりでもいいかな」
風が騒いだ。
真夜が静かに立ち上がる。
「きっと私たち、あの日からずっと壊れていたんだ。だから……壊れた者同士、あの世で再会できたらまた、笑顔になってもいいよね」
手にした修司の遺骨を抱きしめ、微笑んだ。
それは修司が見れば、これまでで一番幸せそうな笑顔だった。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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栗須帳拝




