第四十話 深部へ
異様なほど、静かな夜だった。
帝都の下層、その中枢へ向かうこの道には当然、月光も届きはせず、手にした竜脂のランプだけがレグナとマナ、大小二つの影を長く伸ばしている。
重苦しいほどに積層した闇が、粘度をもって肌に纏わり付いてくるような夜だった。
本来、見張りの兵士が配されているはずのゲートは開け放たれ、ここにもやはり人気がない。
人の気配はしないのに、四方八方から突き刺さるこれは、殺気だ。
闇の中に溶け込むように息を潜める何者かが、レグナへ研ぎ澄まされた殺意の矢を浴びせている。
お前などいつでも殺せる、と。
それでもなお手を出して来る様子が無いのは恐らく、この殺気の主がヴァレリウスの手の者だからだろうとレグナは踏んでいた。
ゆえに、少なくとも今この場でレグナたちを殺すつもりはない。
こいつらは相当な手練れだ。だが、それとは別に後を尾けられている。
真後ろを一定の距離で、この静けさに足音も隠しきれていない稚拙な尾行だ。
「——誰だ」
レグナは唐突に背後を振り返る。低い声が不自然なほど大きく響いた。
蟠る闇の中から、一つの人影が現れる。
「は……はは。えっと……バレてました?」
頬を掻きながら姿を見せたのはナトラだった。予想通りの相手に、レグナは大きなため息をつく。
「……なんでここに?」
「う……。なんだか寝付けなくて、そうだ、先生と情報交換しとこう! なんて思い立って、家を抜け出したんですけど、そしたらマナちゃんを連れて出て行くところで」
「こっそり後を尾けて来たと」
「てへへ……」
厳戒態勢を敷く帝都で、なんとも危機感に欠けた行動力に呆れを通り越して少し感心する。同時に、これくらいの豪胆さがなければ竜狩りになど志願したりしないか、とも。
「……ヴァレリウスからの招待だ。お前も来るか?」
放っておくと何をしでかすか知れたものではないし、帰れと言って大人しく帰るタマではない。ならいっそ、目の届く所にいてくれた方が安心できる。
「行きます!」
叱られた犬のように縮こまっていたナトラは元気よく手を挙げ、駆け寄って来る。
とは言え、ヴァレリウスの意図が掴めない以上、この先に何が待ち受けているのかは分からない。
何があっても、こいつは無事に帰す。
猟に連れて行く際も絶対としてきたそれを、改めて胸に刻む。
「こんばんは、マナちゃん」
「ん」
ナトラはマナの隣に並ぶと、その手を握った。マナはされるがまま、手を引かれて歩き出した。
「——で、お母さん、無事帰って来たお祝いに何が食べたい? って聞くから私、迷わずお肉! って答えたんですよ。なのに、出て来たのは芋、芋、豆! じゃあなんで聞い——」
握ったマナの手をぶんぶん振りながら喋るナトラが、ピタリと止まる。
目の前に天地を貫く巨大な柱——帝都の中枢シャフトと、その下に白い影が浮かび上がったからだ。
ヴァレリウスはただ一人、そこに立っていた。
何人たりともその身を害すること能わず。それを表すが如く、悠然と。
「おや、あなたと女神の二人で——と言ったつもりだったが」
「不可抗力だ。都合が悪けりゃ帰らせるが」
ナトラが即座に抗議の視線を向ける。
「——構わない。彼女もまた、権利を持ち得るようだ」
ヴァレリウスの冷たい視線が、ナトラとマナの固く握られた手に向く。
「権利? それより、この殺気をなんとかしてくれ。息苦しくて敵わん。あんたのお仲間だろう?」
「これは失敬」
ヴァレリウスが右手を小さく上げると、肌を刺すような殺意は霧散した。
「彼らには君たちの道案内を任せていたんだが、少しやり方に難があったようだ」
「アタランテより社交性の無い連中だな。シャイにも程がある」
「ふふ……、私と母上のためなら命も惜しまない、忠実な僕だ」
ヴァレリウスは柱の方へ向くと、そこへ左の手首を当てる。
そこから青い光の線が走り、それを追うように壁面が裂け、広がり、その先へ空間が現れた。
「先生、あれ……シデラの——むぐッ」
それを指差し、何事かを口走ろうとしたナトラの口を押さえる。
確かにそれは、シデラで見た技術とよく似ている。だが、より洗練されているようにも思えた。
「——さあ、こちらだ」
そんな二人の様子を意に介さず、ヴァレリウスは中枢シャフトにぽっかりと口を開けた穴へと踏み込む。
「……行くぞ」
レグナが言うと、口を抑えられたままのナトラは無言で首肯した。
予想外に、入った先はすぐに行き止まりだった。
と言うより、小部屋のような空間になっていた。
音もなく入口が塞がり、白い光に室内が照らし出される。何も無い、無機質な部屋だった。
一瞬の浮遊感。
どうやら昇降機のようだが、音も振動もまるで感じない。最初の浮遊感が無ければ動いていることにすら気づけなかっただろう。
ヴァレリウスは壁に背を預け、不敵な笑みを浮かべている。
「——ここであんたの身柄を押さえて、その企みを洗いざらい吐かせてもいいんだぞ」
「しない……いや、出来ないだろう、そんなことは。失敗すれば——まぁ、まず失敗するだろうね。その二人を失うことになる。君を慕う者が、君の判断ミスで死ぬ。君はそれに耐えられない。それに、君は抗えないはずだ」
ヴァレリウスの瞳が妖しい光を放つ。
「——帝国を斃す。その誘惑に」
レグナは舌打ちし、目を逸らした。
四人を乗せた小部屋は音もなく落ちてゆく。
遙か地の底へ。
帝国の、始まりの地へ。




