第三十九話 自由意志
カチ、カチ、と大きな振り子時計が時を刻む中、一度だけ紙の擦れる音が鳴った。
レグナが昨夜書き上げた報告書に目を落としていたヴァレリウスは、読み終えたそれを机に置く。
シデラでの出来事を記せるはずもなく、内容に苦慮した結果生み出されたのは、報告書と呼ぶにはあまりにもお粗末な代物だった。
「サペから報告のあった大型走竜の群れ五頭は全滅。しかし竜骨の回収は無し。これはどういう経緯です? 詳細が無いようですが」
「思いの外手こずってな。殺すのが精一杯だった」
当然ぶつけられるであろう質問に対し、予め用意した言い訳を述べる。
「——野営中襲撃してきた飛竜は108号が単独で狩猟。この竜骨は、一次査定で非常に状態が良かったと報告を受けています」
意外にもヴァレリウスは深く追求せず、次の話題へと進んだ。
「ああ。108号は俺を起こさず、単独で飛竜を狩った。単独行動については俺から戒告を行った」
108号、というのは現時点のルフスの管理番号だ。
「飛竜を単独で狩れる108号と13号がいて、竜骨を一つも確保できなかった、と」
冷たく言い放たれた言葉の前に、レグナは思わず黙り込んだ。
カチ、カチ、カチ。
振り子時計は沈黙に沈んだ執務室で、規則正しく時を刻み続けている。
「——白月には、会えましたか?」
反論しようと口を開きかけていたレグナは、その言葉にヴァレリウスを見る。
頭を殴られたように、一瞬思考が停止した。
聞き間違いか?
いや、違う。
顎の前で手を組み、薄く笑うこの男は一体、何をどこまで、知っている?
「……何のことだ?」
声が震えないよう、細心の注意を払う。
「ああ、誤魔化さずとも結構。そのために、君を北へ向かわせたのだから」
「……なに?」
「言葉の通り。あなたを白月に接触させること。それに、アタランテの叛乱を誘発させるのに、あなたが帝都にいては邪魔だった」
ヴァレリウスの笑みが深くなる。
「……叛乱はやはりお前の差し金か。何が目的だ」
「それは君の願いと同じはずだ、13号」
「何を馬鹿な——」
「帝国の崩壊」
レグナはそれを否定できず、言葉を飲み込んだ。
帝国とは、アタランテを縛るシステムそのものだ。この軛を断ち切らぬ限り、自由を得ることはない。
だがそれは、七百年もの間維持されてきた絶対の軛だ。
故に、レグナだけではない。過去から現在に至るまで、ほぼ全てのアタランテがただ生きるためにこの軛を甘んじて受け入れてきたのだ。
それを、運命として。
「……なぜあんたが帝国の崩壊を望む?」
アタランテがどれだけ望もうが、決して手に入れられないものを帝国から与えられているはずのこの男が。
「憎いからだ。この国も! 皇帝も!! 母さまに生み出されておきながらそれを忘れ!! 僕から母さんを奪ったあいつらが!!」
叫ぶように言うヴァレリウスは、どこか幼子のように映った。
「——今夜十一時、帝都下層の中枢シャフトで待っています。必ず、女神と共に来てください」
一度目を閉じ、開いたヴァレリウスはいつもの調子に戻っていた。
「女神? 誰のことだ。それにそんな所アタランテが入れるわけ——」
「心配はいりません。道は開かれ、君は女神と共に僕の元を訪れる。これはもう、決まったことですから」
「……行くかどうかは俺が決める」
「構いません。それであなたが自らの意思で選んだ、と信じられるのならば」
「自由意志は無い、と?」
「どうでしょうね? 一つ言えるのは、それを選ばされた可能性を否定する術は無い、ということです」
「……俺の意志は俺のものだ」
「そう選ぶことが決まっていた、と言い換えても良い。そしてあなたは、それを成し得る大いなる意志に触れたはずだ」
白月、マイア、それに——マナ。
いずれも人智を超えた存在であり、エストレラの創世に関わっているという。
つまり、神に等しい存在たちだ。
ならば、ヒト一人の意思、運命の一つくらい好きに出来るのかもしれない。
それでも——
「それを疑う意志がある限り、俺は俺だ」
これ以上、ここで話すことは無い。
レグナはドアを勢いよく開き、ヴァレリウスの執務室を後にした。




