断章10 積層する痛み
俺は立ち竦む。
子供の頃から何度も訪れた家の前で。
ここ数年は潜ることのなかった扉の前で。
左手に、赤黒く乾いた血がこびり付いたゴーグルを握りしめて、ただ立ち竦んでいた。
ノアの家の前で。
俺はグラードの騎体に乗せられ、気づけば特区にいた。
気づけば、というのは比喩ではない。本当に、帰路の記憶が欠落していた。
グラードが言うには、ずっと虚ろな目で起きてるのか寝ているのか分からない状態だったらしい。
今は奇妙なほどに、頭の中が澄み渡っていた。
その澄み渡った頭の中には、痛みと後悔が剥き出しで転がっている。
目を閉じれば、腕の中で少しずつ熱を失っていくノアの姿が見える。
思っていたよりもずっと華奢で軽いその身体から、何か大切なものが抜け落ちていくのを見ていることしかできなかったあの時間が、同じ絵本を何度も読み返すように繰り返されるのだ。
そして特区に帰って来た俺は——死に損なった俺は、母さんが待つ自宅に帰るよりまず、ノアの家を訪れていた。
今、母さんの顔を見たら、きっと折れてしまう。
その前に、俺の口から伝えなければならないと、そう思った。
ようやく覚悟を決め、右手を握りしめる。だが、その手が叩く前にドアは中から押し開かれた。
驚いた俺は後ろに飛び退く。
「——! レグナ……」
中から出て来たのはノアの母親のカーラだった。
「あっ……う……」
何か言わないといけない。そう思って口を開いたけど、言葉にならない音が漏れるばかりだった。
カーラは俯いた俺の左手を見ると、静かに目を閉じた。
「……入りな。いいアカヨモギを貰ったんだ」
その背について、俺はドアを潜った。
「シレンスに向かった狩猟隊が壊滅した……ってのは聞いてる。よく、生きて帰って来たね」
テーブルを挟んで縮こまるように座る俺に、カーラは静かに言った。
「でもノア……。ノアが……!」
溢れ出る感情が、まともな言葉にならずに空回る。
「……覚悟はしていたよ。あれが竜狩りになるって言い出した時からね」
覚悟と諦観。一体、この人は何人を見送り、失ってきたのだろう。
「思ったより、早かったけどねぇ」
そう言って、カーラは笑った。失ってなお、前に進むために。
その笑顔を前に、俺は自分が崩れてしまわないよう必死で、爪が食い込むほど両手を握りしめていた。
「そう言えば、アルマから聞いたよ。あんた、あの子のこと最近まで男だと思ってたってね」
アルマというのは俺の母さんだ。
不意に恥ずかしい記憶を掘り起こされ、顔が熱い。
「……だから居心地が良かったのかもね。ノアに言ったことがあるんだ。レグナの側にいたいなら、その子供を産んで帰りを待つのもいいんじゃないか——ってね」
その情景を思い起こすように、その目が細められる。
視線の先は、食事の際にいつもノアが座っていた席だった。
「けど、あの子はあくまであんたの隣に立つことに拘った。あの子は——最期まであんたと親友でいられたかい?」
「……ノアは、俺なんかよりずっと強かった。化け物みたいな竜相手に、一歩も引かなかった」
その姿は目に焼き付いている。
隣に立とうと必死だったのは、俺の方だ。
いつだってノアは強くて、格好良い奴だった。その背中を追いかけて俺は、ここまで来たんだ。
「——そうか。なら、きっとこれで良かったんだ」
カーラは静かに立ち上がる。
「ありがとう。最期まで、あの子のそばにいてくれて」
その頰を、一筋の涙が伝う。
「……これを」
俺はゴーグルを差し出した。
遺体を運ぶことも出来ず、これが唯一の遺品だ。
「それはあんたが持っておくべきだ。きっと」
途端に、手の中のそれがずしりと重くなったように感じた。
「……分かりました」
「ただいまぁ! ……おにーちゃんだぁれ?」
突然ドアが開き、入って来た小さな女の子が俺の顔をじっと見上げる。
「おかえりナトラ。この人はノアのお友達だよ」
ナトラ。
今際の際でノアが気にかけていた、四歳の妹。
「……! ひょっとして、あなたがレグナ!?」
「あ……ああ」
思わず答えると、女の子はぴょんぴょんと跳ねてはしゃいでいる。
「ノアがいつもあんたの話ばっかりしてたからね。噂の人に会えて嬉しいんだろうさ」
「それは……」
どんな風に語られていたのか知る由はないが、想像するだけでいたたまれない気持ちになる。
「おねーちゃんは?」
「……ああ。少し遠いところまで行ってるからね」
「そっかー。帰って来たら狩りのおはなし、いっぱい聞かせてくれるって言ってたのに」
少女はカーラの返答に、露骨に失望した顔を見せる。この様子だと、随分ノアに懐いていたようだ。
「……俺はそろそろ帰るよ」
「ああ、アルマによろしくね」
「……はい」
踵を返した俺の、上着の裾が引かれた。
「またあそびにくる?」
振り返ると、少女と目が合った。
大きな瞳に見つめられ、罪悪感が込み上げる。俺はこの子の大切なものを守れなかったんだ、と。
「……いや、もう——遊びには来ない」
くしゃっと泣き顔になった少女から目を背けるように、俺は足を前に進めた。
進めた、というのはまだ虚飾がある。
あの時俺は——ナトラの前から逃げ出したんだ。




