第三十一話 地の底から月を見下ろして
目を覚ます。
暗い部屋に、高い天井。
ふかふかのベッドに、暖かな布団。
上半身を起こすと、全身がぐっしょりと汗に濡れていることに気づく。
何度も、何度も繰り返し見た夢だ。
血の匂いと、炎の熱さ。そして、胸を締め付ける痛みが再生され、目を覚ます。
もはや悲しみはなく、ただ痛みだけを残して。
硬いベッドと寒い部屋が見させるのかとも思っていたが、どうやらそれは違ったようだ。
レグナは音を立てないよう床に立つと、部屋の入り口で靴を履き、ドアを開いた。
本当に見張りも付いていないようだ。
辺りは静まり返り、人の気配は無い。
湾曲した通路は恐らく、中央にあるあの大穴から同心円状に作られているのだろう。
その円の中心へ向かえば、大穴に辿り着くはずだ。
大穴は部屋の窓から見えており、出入り口はその反対側。
レグナは通路を時計回りに歩きつつ、内側の通路への連絡路を探す。
特に用があるわけではない。
ただ無性に、空が見たかった。
予想通り右手に通路を見つけ、そちらへ曲がる。
通路の途中には昇降用の階段もあった。
やはりここは、大穴を中心に円盤状の階層が積み重なる構造になっているようだ。
円の内側へ進むと、例の大穴に辿り着いた。
雲はないが、雪が月明かりを反射してチラチラと光っているしかし白い結晶はここまで落ちてくることはなく、途中で溶けてしまう。
欄干に手を掛け、レグナはしばらく上を眺めていた。
遥か頭上、大穴の上に浮かぶ月を見ていると、重力を失って井戸の底に映る月を見下ろしているような錯覚に陥る。
「——ナトラか?」
眺めながら、背後からこちらを伺う人物に声をかける。
「うへー……バレてました?」
「密偵には向いてないな」
ナトラはバツが悪そうに頭を掻きながら、通路の影から姿を現すと、レグナの隣に立った。
「起こしたか?」
「……先生、うなされてたので」
「……」
欄干に置いた手に力が入る。
「……ノア」
レグナは思わず、ナトラの顔を見る。
「お姉ちゃんの名前、呼んでました。苦しそうに」
ナトラは途中で消える雪を見ながら言い、レグナへ視線を向けた。
ナトラと、ノアについて話したことはない。
レグナから話すはずもないし、ナトラが訊ねてくることもなかったからだ。
まだ幼かった彼女は、突然いなくなった姉のことを無意識に記憶から消してしまったのだろうと、勝手にそう納得していた。
「……覚えてたのか」
「忘れるはず、ないじゃないですか」
ナトラは欄干を両手で掴み、腕を伸ばして体を傾けて空を見上げながら言った。
「——大好きな、お姉ちゃんのこと」
「……そうか」
「お姉ちゃんが十五になる少し前、お父さんが死んだんです。お姉ちゃんのお父さんとは違う人なんですけど、その人も、もういなくて」
それは初耳だった。ノアも、その母親のカーラも一言も言わなかったことだ。
「だからお姉ちゃん、『ボクが家族を食べさせるから』って。お母さんは無茶するんじゃないよって言ってたけど、私はそんなお姉ちゃんに憧れてたんです」
「それで竜狩りに?」
「それもありましたけど」
ナトラは溶けることなく降りて来た、大きな雪の結晶へ手を伸ばす。伸ばした手は届くことなく、結晶はさらに下へ落ち、やがて消えていった。
「お姉ちゃん、いつも一人の男の子の話ばっかりしてたんですよ。私や、お母さんに」
雪の結晶を見送ったナトラの瞳が揺れる。
「……男の子?」
ノアの近くに、そんな奴がいただろうか。
「……あー、そんなだから……。私たちを養うためっていうのは、きっと後から出来た理由で、きっと初めての——あの狩りの前の夜にポロッと溢したあれが、最初の、本当の理由なんだと思ったんです」
ナトラの瞳が月明かりを映して、まっすぐにレグナを捉える。
「ボクが隣にいないと、あいつはダメだから——って」
心臓を抉られたような痛みに、視界が揺らぐ。
なら、ノアが竜狩りになったのは——死んだのは、俺が原因だ。
ノアを守れなかった痛みは、ノアを死地に呼び込んだ痛みへ色を変える。
吐き気が込み上げ、口を押さえてその場へ膝をついた。
「だから、大好きなお姉ちゃんが大好きだった先生——レグナさんに、私も近づきたいって、そう思ったんです」
見上げたナトラは、強い光を宿した目でレグナを見ていた。
ああ——ノアだけでなく、ナトラまでも。
自分のせいで。
悔恨が渦巻き、言葉が出ない。
言葉は、出ない。
「……全部……俺のせいだ……。守れもしないのに……俺は……」
出てきたのは、ただの慟哭だった。
レグナは懺悔するように首を垂れる。
バシッ。
二つの手のひらが両の頬を挟み込み、力づくで上を向かされた。
頬に、ナトラの熱が伝わる。
「違います! 私も! お姉ちゃんも! 自分の意思で竜狩りになったんです! あなたの隣に立ちたかったから! でもそれは絶対に、あなたのせいなんかじゃない!」
今にも泣きそうな、けど強く光る瞳。
ナトラのこんな顔は初めて見た。
きっと、ナトラもそう思っているだろう。それくらい情けない顔をしている自覚があった。
「だっ……! だから! 先生が気に止むことなんかないんです! 『自分の命の責任は自分で持つべし』、です!」
パッと両手を離し、ナトラはレグナに背を向ける。
「……そう割り切れるもんでもない、が」
レグナは膝に手をついて立ち上がる。
胸を引き裂くような痛みは、いく分和らいでいた。
「まだまだ、お前には教えることがあるしな」
「そうですよ! 私が死んだらまた夢見が悪くなりますよ! 化けてでも隣にいますから!」
「……それは勘弁してくれ」
「それにしても……さっきはチャンスだったのでは? あのまま唇を奪っておくべきだった……?」
「何アホなこと言ってるんだ」
「イタッ」
腕を組んで前を歩きながらぶつぶつ呟く頭を軽く引っ叩く。
夜はまだ明けない。
ささやかな願いを祈りに変え、部屋へと歩く。
——どうかこの二度寝は、安らかな眠りを。




