断章4 海
帝都カエレルムから西へおよそ2700ガロス。
オライゴ大陸の西端に位置するこの港街シレンスは、永らく西海のゼフィラ大陸との貿易で栄えていた。
高い空に青い海。異国情緒溢れるこの街は帝国貴族の療養地としても知られ、豪奢な別荘が立ち並ぶ。
奇妙な動きをする竜群に幾度となく襲撃を受け、交易路が機能不全に陥っている。
現地の竜狩りの損耗率は三割に達し、街に被害が及ぶのも時間の問題である。
そうなれば、偉大なる神聖帝国の経済に多大なる影響が及ぶは避けられず。
至急、帝都より応援を送り皇帝陛下のご威光を示されたし。
そんな、脅しとも取れる救援要請が帝都に届いたのは、今からひと月ほど前だと言う。
シレンスは貿易の要衝であるが故に、アタランテ特区を抱える数少ない衛星都市だ。
帝都のそれより規模は劣るとはいえ、ずっとシレンスを守り抜いて来た精鋭たちだ。
それに加え、シレンスには正規軍も駐屯している。この状況であれば、当然事態の収拾に当たっているはずだ。
それがもはや、街を守りきれぬと言ってきた。
帝都は広域狩猟を想定し、延べ五十騎からなるアタランテ大隊を編成、シレンスへ派遣した。
俺と、そしてノアは初陣にしてその隊へ編成される事となった。
十八日間の旅程。
目に映るもの全てが新鮮だった俺たちは、浮かれに浮かれていた。
いや、この時は浮かれてるつもりなんて毛頭なかった。けど、今になって振り返ると頭を抱えたくなるくらいには浮かれていた。
森、平原、緑の山々に澄んだ川。
聞いたことのない鳥の鳴き声に、見たことのない獣。
青い空に、白い雲。吹き渡る風。
なにせ、十五年の人生のほとんどをあの陰鬱な特区の中で過ごしてきた。
けれどこれからは、少なくとも猟の時はこの広い世界へ出られるんだ。
手放しで”自由”と呼べるシロモノかは分からない。
それでも、俺たちは生まれて初めて一つの命として、この世界に存在していることを実感した。
「……ノア」
「なんだよ」
「お前が志願した理由が、分かった気がする」
俺は頰を撫でる風と、ぽかぽかと暖かい陽の光を浴びながらそう溢した。
「なんだよ気持ち悪いな」
隣を小型騎で進むノアが、怪訝な顔でこっちを見る。
「この広い世界を知らずにあの特区で死んでくなんて、なんつーか……もったいないもんな」
「……そうかもな」
「お前ら初陣だろ? 浮つくのも分かるが程々にしとけ。死にたくなけりゃぁな」
一日目の夜。
野営地で食事を摂る俺たちに声を掛けてきたのは、8号だった。
名はグラード。この隊の副隊長だ。
黒くゴーグル焼けした彫りの深い顔の奥で、猛禽のような瞳が鋭い光を放っている。
グラードはベテランのアタランテでありながら、中型機を好まず小型騎に乗り続けている変わり者で知られていた。
「はい! 狩りになれば、必ず役に立って見せます!」
ノアが威勢よく答えになってない言葉を返すと、グラードはキョトンとしてからボサボサの頭を掻いた。
「お前ら新人は前には出さねぇ。後ろで先輩どもの仕事を指咥えて見てな」
「でも……!」
「デモもストライキも俺たちにはねぇ。お前らが成績優秀だってのは知ってる。けどな、ここじゃ——」
グラードは洗っても落ちない油汚れで黒く染まった指で、自らのこめかみを指した。
「そういう奴から死ぬ」
ノアの握りしめた拳が震えている。
それでも何か言おうと口を開いた瞬間、俺はその前に広げた手を差し出した。
「よせ、ノア」
「レグナ! でもそれじゃボクたち、ただのお荷物だろ」
「俺たちは俺たちに出来る仕事をするんだ。哨戒とか、輸送とか」
物分かりのいい、冷静な新人。そんな台詞がスラスラと口をつく。
本音を言えば、少しホッとしてたんだと思う。
後方任務なら、死ぬ可能性は低い。俺も、こいつも。
「それじゃダメなんだ……。竜を、狩らないと」
俯いて呟いたその言葉を、俺は聞かなかった事にした。
そんな俺たちを、グラードは黙って見つめていた。
野営地の夜は更けていく。
十五日目の夜。
シレンスまであと三日ほどの距離まで来た。
周囲の警戒にあたっていたアタランテが複数の走竜に襲撃された。
走竜は無事撃退されたが、隊長のハディトは険しい顔をしていた。
「……複数の走竜種が混成してる。こんな群れは見たことがない」
「別々の群れがたまたまここで合流したんじゃねぇか?」
グラードが竜の死体を見ながら言う。
「奴らは縄張りに厳格だ。とは言え、これだけの竜騎が一箇所に集まっていれば、竜を呼び寄せてしまうのも道理ではある、か」
ハディトはグラードより年若く、番号は11だ。
切れ者で知られる彼は、アタランテからの信頼が厚い。
なんでも、今回の任務に当たって、グラードから隊長の座を押し付けられ……譲られたらしい。
「そうそう。いいじゃねぇか、夕飯が豪勢になったってなもんだ」
グラードは鼻歌混じりに竜の首にナイフを突き立てた。
その刃が肉を剥ぎ、一塊の肉を切り出したところで手が止まる。
「……おいハディト、こいつを見ろ」
「……ッ! これは……」
ハディトが息を呑んだ。
近くで野営の準備をしながら様子を伺っていた俺は、その手元を覗き込もうとしてグラードに遮られた。
黙って首を振るその目は、有無を言わせない圧力があった。
「サンプルに一体だけ回収し、残りは埋める。監察官には僕から報告する」
「分かった。処理は任せろ」
グラードがそう返すと、ハディトは監察官のいる天幕へ去って行った。
そのやりとりが意味するところは俺には分からない。
一つはっきりしているのは、肉を食う機会が失われたという事だけだった。
十八日目。
十五日目以降、隊は昼夜問わず断続的に竜の襲撃を受けた。
受けながらも、人的被害は出すことなくここまで来られたのは、やはりこの隊が精鋭揃いだからだろう。
丘を越え、目の前に広がった景色に何か言おうとしたけど、言葉にならなかった。
「海は初めてか? って、そりゃそうか。新人だもんな」
豪快に笑うグラードに何の反応も出来ず騎体の足も止め、俺たちはただ見入っていた。
陽光を受けてギラギラとした光を返す青い水面に、その上をゆっくりと滑る色とりどりの帆。
遥か果てに見える水平線。
「——エストレラって、本当に丸いんだ」
たっぷりと時間をかけてようやく喉から出てきた言葉は、ただ知識を確認するだけのものだった。
「ぷ……なんだよ、それ」
同じように呆けていたノアが我に帰って、俺を指差した。
「……笑うことないだろ」
「悪い悪い。——でもほんとに、でっかいな」
「……ああ」
十五歳になった俺たちの世界は、途方もないほどに大きくなった。
それは同時に、守られる時間が終わった事を意味していたのだと、この時はまだ気づいてすらいなかったんだ。




