第十八話 静謐の青
深い森の、窪地の底。
マイアの言葉通りの座標。
小さな泉の傍、木漏れ日の中にそれはいた。
巨大な翼を自らを守るように畳み、丸くなって眠っている。
辺りに他の竜の気配はない。
背に穿たれた円形の傷痕は、渓谷でレグナが与えたものに相違ない。
しかし、焔を思わせる紅蓮の体色は今や、静謐な青へと変わっていた。
レグナたちは、窪地を一望できる位置で藪に身を潜めてその様子を窺っていた。
「あれが……帝竜、か」
双眼鏡を覗き込み、フルカが息を呑む。その手の震えは緊張か、あるいは興奮からか。
「渓谷で交戦した個体……のはずだが、色が違う。あの時は赤かった」
「ふむ……休眠期に入った帝竜は体色が変わるのか、あるいは元となった飛竜種……恐らくはプテログラキエスが持つ特徴なのか……。いや、相変異を起こす際に体色を変え、これが本来の体色であるという可能性も……」
「あの状態からまた群れを生み出すまでどれくらい猶予がある?」
双眼鏡を目に当てたまま思考の世界へ沈んでいくフルカを無理やり引き上げる。
「……どうだろうね。数週間か、数ヶ月か、あるいは数年か。ひょっとしたら百年かかるかもしれない。いずれにせよ、竜の生きる時は我々では計りかねる」
「ここで狩るか?」
「二人でですか!? ……むぐっ」
ナトラが素っ頓狂な声を上げたので、慌てて口を押さえる。
「やめておいた方が無難だろうね。いくら君と言えど、たった二騎で狩れる相手じゃない。下手に刺激すると、活動再開を早めるかもしれない。今日は情報だけ持ち帰るとしよう」
「……了解だ。なら、さっさと済ませよう」
フルカは頷き、機材の準備を始める。
周辺の竜素濃度の測定、竜素の流れの観測をフルカは行い、レグナはその補佐をする。
ナトラは周囲を偵察しつつ、竜の個体数を調べに行った。
その間マナは、しゃがみ込んで帝竜をじっと見つめていた。
「やっぱり、一匹も見つかりませんでした。なんか気味悪いほど静かです」
「そうか、こっちももうすぐ終わる」
そこでふと、違和感に気づく。
「そう言えばお前、脚はもういいのか?」
帝竜狩りの際に折ったはずの脚で元気に駆け回るナトラに問う。
「もう平気です! 私、子供の頃から怪我の治りが早いんです」
ナトラはそう言いつつ、その場でぴょんぴょん跳ねて見せる。
「そりゃいい。生き残っても怪我のせいで食い詰める竜狩りは少なくないからな」
レグナも同様に、怪我の回復速度を驚かれた事があった。
「そう言えばあいつも……」
独りごち、フルカの元へ向かう。
データ収集が終わり、フルカは一心不乱に帝竜の姿をスケッチしていた。
精巧なそれは、今にも動き出しそうなほどの出来栄えに見えた。
「うわ、すっごい上手ですね」
それを後ろから覗き込んだナトラが感嘆する。
「ふふん、そうだろう。幼少期よりパパに散々描かされたからね。生物学は何を置いてもまずはスケッチからだ、とね。そうだ、君も描いてあげようか」
「えっ、いいんですか!? でも私なんか描いても……」
「そんなことはないさ。君は生命力に満ちててとても素敵だよ。エリザベスのようにね」
「エリザベス……? 貴族のお姫様ですか?」
褒められたナトラはワクワクとした顔で訊ねる。
「君たちが持ち帰った地竜さ。あたしが付けた識別名称だ。良い名だろう?」
「ち……地竜……。生命力って……死んでるじゃないですか……」
ガックリと肩を落とすナトラに、フルカが笑顔を向ける。
「そうだ、君たちの名も聞かせてくれたまえよ。あるんだろう? 番号ではない、固有の識別名称が」
「レグナだ」
「……ナトラです」
別に隠すようなものでもない。
もっとも、リヴィアと同じく貴族であるフルカが大っぴらに呼ぶのは問題があるだろうが。
「レグナに、ナトラか。あと、こっちのおチビちゃんはマナ、だったね」
その言葉に釣られるように、レグナとナトラの視線がマナに向く。
そこから、導かれるようにマナの視線の先へと向かい
——帝竜がこちらを見ていた。
三人揃って、声も上げずに硬直する。
マナと見つめ合っていた帝竜の眼が、レグナに向く。
その眼は「お前があの時の敵か」と言っているように思えた。
無論、錯覚だろう。
キャノピー越しに顔を見ていないとは言い切れないが、その上で竜が人間の顔を識別出来るとは思えない。
穏やかな眼だった。
渓谷で対峙した際、黄金色の瞳はこの世界の全てを憎み、滅ぼさんとしているようにすら見えた。
放たれる殺意だけで、並の竜狩りなら身動きできなくなるほどに。
それが今は、まるで憑き物が落ちたかのように静かな、青く澄んだ眼をレグナへと向けている。
風が頭上の木の葉を鳴らし、レグナはようやく我に帰る。
「……退くぞ」
幸い、帝竜から敵意は感じない。その気が変わらない内に撤収すべきだろう。
「……そうだね」
フルカが同意し、ナトラも頷く。しかしマナだけは、無言で竜を見つめ続けていた。
「ほら、行くぞ」
「——星の意思」
マナは小さく呟き、立ち上がる。
「なんだって?」
その問い掛けには答えず、マナはレグナの竜騎へと歩いていく。
「星の、意思……?」
レグナはその言葉を反芻し、竜へ振り返る。
帝竜は興味を失くしたのか、あるいは睡魔に負けたかのように目を閉じ、その背はゆったりとした呼吸に上下していた。




