第十話 神聖なる怪物
長く垂れた前髪の隙間から、紫水晶の瞳が焦点の合わない様子で床を映している。
「床……冷たい……」
蚊の鳴くような小さな声がしかし、不気味なほど透明な響きで鼓膜まで届いた。
鈴の鳴るような愛らしい声が背筋を凍り付かせる。
まるで得体が知れないが、一方で敵意も感じられない。
ただ、そこに在るだけだ。
その異質さはある意味、この塔を初めて間近で目にした時に感じたものに近い。
レグナはナトラをおぶったまま、真っ白な少女の前に片膝をついた。
「お前は何者だ?」
伏せられていた目が、レグナを見る。
その瞳を覗き込んだ時——覗き込むつもりすらなかったのだが、まるでその紫の光の中へ引き摺り込まれるよう錯覚した。
「……? マナはマナ」
「マナ……? お前の名か? そういうことじゃなくだな——」
白い腕がこちらへ伸びたかと思うと、飛び退く間も無く両頬を冷たく、細い指が包んだ。
「——怯えなくていい。マナはヒトの子らの守護者」
そのまま少女の顔が近づき、唇にひやりと柔らかな感触が触れる。
刹那、唇から発した電気のような何かが体の中を駆け抜け、左手首へと達する。
熱い。
逆鱗が焼け石のように手首を灼いている。
その冷たい唇が離れると、熱は嘘のように消え失せた。
「な……な……な……」
背中でナトラがわなわなと震えている。
「……俺に、何をした?」
奇妙な事に少女の顔が眼前に迫ってなお、レグナは何の抵抗も出来なかった。
まるで本能が彼女を受け入れているかのように。
「契約」
「契約……?」
「ヒトの子とマナは契約を交わした」
「こんな一方的な契約があってたまるか。ヒトの守護者? 目的はなんだ」
「マナはマナ。ヒトの子らを護り、救うもの」
「訳がわからん……。ナトラ、お前は落ち着け」
レグナの右肩から唸り声を上げて少女を威嚇するナトラ。その頭に左手を置いて宥めた。
未だ荒ぶるナトラを床に下ろし、上着を脱ぐと少女の肩に掛けてやった。
少女はその上着を胸の前で抱き寄せるように合わせた。
「温かい」
表情は変わらないが、冷たさや温かさへの反応は人間のそれと相違ないようだ。
しかしそれでも、彼女がこの世界の人間だとは認め難い。
なぜならこの少女は、エストレラにおいて征竜帝アテルニタスの血を引く者——つまりは皇族にのみ受け継がれるとされる、白銀の髪を持っているのだから。
そしてその銀髪の持ち主が、世界創世の地とされるこの場所で目覚め、ヒトの守護者を名乗ったのだ。
少女は問う。
「マナはヒトの子らを救いたい。救わないとならない。そのためにヒトの子の力が必要だ。ヒトの子は何を望む?」
望み。
何だったのだろうか。
友の復讐か。
帝国を滅ぼすことか。
全てから解き放たれて自由に生きることか。
あるいは、死か。
「……俺の望みは、お前に叶えられるようなモノじゃない」
頭が痛む。
こめかみの奥が。
「ヒトの子……? 痛むのか?」
目を閉じ、眉間に皺を寄せたレグナの額に少女の指先が触れる。
すると、痛みは霧のように消え失せた。
「……レグナだ」
「……?」
「俺の名だ。お前はマナ。俺はレグナ。こいつはナトラだ」
背後のナトラを親指で指す。
「……レグナ」
マナはその名を、確かめるように呟いた。
ともあれ、いつまでもこうしてはいられない。
生還するための刻限は着実に迫っているのだ。
決断せねばならない。
何も見なかったことにしてここを出るか、この得体の知れない少女を連れて行くか。
“次元の塔で目覚めた銀の髪を持つ少女”の存在は、帝国の歴史も、その国教であるハドカ神教も根本から揺るがしかねない。
帝国はその存在を決して許しはしないだろう。
帝都に連れ帰れば少女は勿論、レグナたちの身も危険に晒されることは間違いない。
しかし、だからこそこの少女はアテルニタスの英雄譚に立脚する、帝国の急所を刺す切り札になり得る。
「ここに俺たちを呼んだのはお前か?」
「……?」
不思議そうに小首を傾げるマナは、嘘をついている風ではない。
しかしレグナは、ここへと導いた何者かの意思を確かに感じていた。
姿なきその意思の主はマナとレグナらを巡り合わせ、今もどこかで見ているのではないか、と。
「俺たちは帰る。……お前も来るか?」
「なっ……!?」
後ろに座り込んでマナを睨んでいたナトラが、口をパクパクさせて絶句する。
「当然。レグナとマナは契約で結ばれた伴侶だから」
マナはそう言って胸をそらす。本人は最初からそのつもりだったようだ。
「は……伴侶」
ナトラが二人を交互に指差し狼狽する。
「歩けるか?」
「ん」
マナは力強く頷くと、裸足のまますっくと立ち上がった。
レグナはナトラに背を向けて片膝をつく。
「ほら、早く乗れ」
声を掛けると、渋々といった様子でその背に乗った。
「……先生、あの子……ホントに連れて帰るんですか?」
螺旋階段を降りるレグナの耳元で囁くように言う。
「一人置いていくわけにもいかないだろ。こんな所に」
マナに期するものは隠しながらも、これも本心ではあった。
何せ、見た目は幼気な子供にしか見えないのだ。
無論、彼女がただの子供などであろうはずもない事は百も承知の上ではあったが。
「そ……それはそうだけど……あの子、先生のく……唇を!!」
「……子供のやったことだろうが」
思い出して興奮し始めるナトラに、レグナは少し呆れて返す。
「じゃあ! 私がしたらどうなんですか!」
「一緒だよ」
その瞬間、後ろから回された両手がレグナの顎をがっしと掴む。
「お……おい、暴れたら落ちるぞ。階段から。諸共」
「子供のやることなんで……大目に見てください」
ナトラは目を閉じ、口を尖らせてレグナの首をへし折らんばかりの勢いでその首を自分の方へ向けようとする。
グググ……とその細腕からは信じられない力で首を捻られながらレグナは必死の抵抗を試みた。
「な……なんでそんな抵抗するんですか! やっぱり私とじゃ嫌なんですか!?」
ナトラは目尻に涙を溜めながらなおも手に力を込める。
「そういう問題じゃないだろ……! お……折れる」
「レグナ、何してる?」
先に階段を下りたマナの声で、ナトラの力が緩んだ。
「……次やったら置いてく行くからな」
「ゔー……」
ゴキゴキと首を鳴らしてから最後通牒を突きつけると、ナトラは大人しくなった。
塔を出ると、マナが夜空を指差した。
「あれはなんだ? 二つある」
「双子月だ。右がルクス、左がノクス」
「……ルクスと、ノクス」
瞳に二つの月を映して、その名を繰り返す。
「……世界にM.A.N.A.が満ちてる」
マナが両手を広げて仰いだ空には、満天の星が瞬いていた。
「マナ? それはあなたの名前でしょ?」
怪訝な顔で尋ねるナトラに、マナは静かに首を振る。
「マナはマナ。M.A.N.A.は星を塗り替える力の根源。方舟より出でて遍くこの星を包み、ヒトの子らを創りしもの」
「なんだそれは。——いや……」
竜素。
目に見えないそれは、このエストレラに偏在するが、特に竜の骨格内に高密度で含有される故にそう呼ばれている。
M.A.N.A.とはつまり、竜素の事を指しているのではないか。
その起源がこの塔にあり、そして——人間を創った……?
レグナは生唾を飲み込む。
一体、何を目覚めさせてしまったのだろうか。
夜風に靡いた白銀の髪が舞い散る薄桃色の葉の中、月明かりを写して光を放った。
その光景にレグナは——ナトラもまた、目を奪われていた。
神聖な、怪物の姿に。




