第1章 観測士
第1章「観測士」を公開します。
プロローグでは,この世界の違和感と,主人公がまだ自分でも理解できていない“観測”の力を描きました。
第1章では,いよいよ物語の舞台である「しろい塔の町」と,観測士という存在が少しずつ見えてきます。
攻撃力ゼロ。
けれど,誰にも見えないものに気づく力がある。
それは本当に“役に立たない力”なのか。
それとも,世界の壊れる前兆を見抜く唯一の手段なのか。
ぜひ,主人公と一緒にこの世界を観測していただけたら嬉しいです。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
視界の中に、青白い線のようなものが浮かんでいる。最初は光の筋かと思ったが、すぐに違うとわかった。それはただの線ではなく、人の身体の内側をゆっくりと巡っている“流れ”だった。
細い光は血管のように枝分かれしながら、道を歩く人々の身体の中を這っている。脈に合わせてわずかに揺れ、時折、濁った水面のように不自然な波紋を広げていた。
「なんだ……これ……」
思わず呟くと、胸元に収まっていた白い生き物――ソノンが、ぴこんと小さく震えた。
『観測波形を自動同期しました』
「同期?」
『現在、あなたの視覚野へ深層観測補助を実装しています』
「……は?」
言葉の意味は、かろうじて理解できる。けれど、それが何を指しているのかはまったくわからなかった。
視覚野。深層観測補助。実装。
いきなりそんな単語を並べられても困る。こっちはついさっきまで研究室にいたはずで、気づけば見知らぬ町に倒れていて、しかも胸ポケットから謎のぷるぷる生物が出てきたばかりなのだ。
ゲームのチュートリアルみたいに説明されても、現実感が追いつくはずがない。
『簡単に説明します』
ソノンは、なぜか少し得意げに胸を張った。もっとも、その丸い身体のどこからどこまでが胸なのかは、正直よくわからない。
『あなたは今、“異常”が見えます』
「……異常?」
『はい』
ソノンの青い目が、町を行き交う人々へ向けられる。
『この町の住民は、全員“汚染”されています』
その言葉に、背筋が冷えた。
改めて人々を見ると、確かに彼らはどこかおかしかった。歩き方が重く、表情が薄く、呼吸も浅い。誰もが起きたまま眠っているようで、町全体に生活音はあるのに、人間らしい熱だけが抜け落ちている。
そして何より異様なのは、彼らの身体の中を流れている青白い光だった。
本来なら澄んでいるはずだと、なぜか直感でわかる。その流れが、どす黒く濁っている。泥水のような色をした何かが、細い光の流れに混じり込み、身体の奥でゆっくりと脈打っていた。
「……これが見えてるの、俺だけなのか?」
『現時点では』
「現時点ってなんだよ」
『この世界に“観測士”はほぼ存在しません』
「観測士?」
『異常を可視化できる者の総称です』
ソノンはそう言うと、小さな身体を町の中心にそびえるしろい塔へ向けた。
『本来、“深層異常”は視認できません。だから世界は、壊れるまで気づけない』
その言葉が、妙に胸へ刺さった。
壊れるまで気づけない。
それは、俺がいた世界でも同じだった。
忘れられない波形がある。
まだ研究室にいた頃。ある学生の検査データを見た。
ほんの少しだけ、変だった。心拍は正常範囲。血圧も、酸素飽和度も、すぐに騒ぐほどではない。画像にも、決定的な異常は映っていなかった。
けれど、波形の端だけが、妙に落ち着かなかった。説明できない乱れ。数値にはならない違和感。俺はそれを、疲労だと思った。
一時的な変化だと片づけた。
忙しかった。
他にも見るべきデータが山ほどあった。
「まあ、大丈夫だろう」と思った。
その数日後、その学生は自宅で倒れた。いわゆる突然死だった。
俺の中では何かが折れた。
あの時、もう一歩踏み込んでいれば。もう一度だけ確認していれば。
「大丈夫」と言われても、本当に大丈夫か疑っていれば。結果は違ったかもしれない。
それ以来、俺は“わずかな異常”が怖くなった。見えないことより、見えていたのに見逃すことの方が、ずっと怖かった。
だからこの世界で、深層異常が見えてしまった時。俺は逃げられなかった。
過労、鬱、突然死、心不全、生活習慣病。人間は、壊れる直前まで案外動けてしまう。まだ大丈夫だと笑い、いつも通り仕事をして、飯を食って、眠る。周囲も気づかない。本人ですら、自分の内側で何が起きているのかわからない。
そしてある日、突然倒れる。
検査は、その“前兆”を拾う仕事だった。まだ症状にもなっていない小さな違和感を、数値のズレや波形の乱れ、流れの異常から見つける。俺はずっと、そういうものを見続けてきた。
だからなのか。
この世界の異常が、俺に“見えてしまう”のは。
「おい」
突然、低い声が飛んできた。
振り向くと、そこには鎧を着た大柄な男が立っていた。二メートル近い身長に、肩へ担いだ巨大な剣。顔には古い傷跡が走り、こちらを見下ろす目つきは鋭い。全身から漂う圧だけで、彼がこの町では相当腕の立つ人間なのだとわかった。
いかにも“冒険者”という感じだ。
「見ねぇ顔だな」
「……えっと」
「旅人か?」
言葉は普通に通じるらしい。
まずそこに驚くべきなのかもしれないが、今さら言語の不思議まで気にしていたら、俺の脳は本格的に限界を迎える。異世界らしき町。しろい塔。汚染された住民。観測士。すでに処理待ちの情報が多すぎる。
男は俺の白衣をじろりと見て、眉をひそめた。
「なんだ、その服」
「いや……これは……」
答えに詰まる。
研究室ではただの作業着みたいなものだった白衣も、この世界では完全に不審者の服装だ。しかも土まみれで、どう見てもまともな旅人には見えない。説明しようにも、大学病院だの研究室だの言ったところで通じる気がしなかった。
その時、胸元のソノンがぴこんと震えた。
『警告。対象、重度汚染反応』
「……え?」
次の瞬間、俺の視界に男の身体が透けて見えた。
胸部の奥に、どす黒い塊がある。心臓の周囲を、黒いノイズのようなものが這っていた。青白い流れに絡みつき、脈動に合わせて不気味に揺れている。
しかも、脈が不規則だった。
ドクン。……ドク。ドクン。
リズムが乱れている。素人目にも、いや、これまで散々波形を見てきた俺だからこそわかる。これは危ない乱れ方だ。
「……ッ!」
考えるより先に、俺は叫んでいた。
「動くな!!」
「……は?」
「今すぐ座れ!!」
男が眉をひそめる。
「なんだテメェ」
「いいから!!」
俺の声は、ほとんど悲鳴だった。
あの時と同じだ。
小さな違和感を見つけているのに、まだ誰も本気にしていない。本人でさえ、自分の身体が危ないことに気づいていない。
俺はもう、同じことを繰り返したくなかった。
「座れ、カルジオ!!」
名前を呼んだつもりはなかった。けれど、口から勝手に出ていた。
男の目が、一瞬だけ揺れる。
「…… なんで俺の名を」
その言葉が終わる前に、彼の顔色が変わった。
ぐらり、と大きな身体が揺れる。さっきまで俺を見下ろしていた男の表情から血の気が引き、彼は苦しげに胸を押さえた。
「が……ッ」
呼吸が詰まり、膝から力が抜ける。
周囲の人々が一斉にざわめいた。
「お、おい!?」
「カルジオ!!」
男――カルジオは、そのまま地面へ膝をついた。視界の中で、彼の波形が一気に乱れていく。青白い流れが途切れ、黒いノイズが心臓の周囲で激しく跳ねた。
まずい。
これは、かなり危険な不整脈に見える。
もちろん、ここには検査機器もなければ、病院もない。俺は医師ではないし、目の前の現象を現代医学だけで説明できるとも思えない。だが、何度も見てきた“危ない乱れ方”に似ていることだけはわかった。
放置したら危ない。
その判断だけは、迷わなかった。
俺は反射的にカルジオへ駆け寄り、彼の手首を掴んだ。
「脈は!?」
速い。しかも不規則だ。
皮膚は冷たく、額には冷や汗が浮かんでいる。呼吸は浅く、顔面は目に見えて蒼白になっていた。周囲の人々は完全に混乱し、誰も正しく動けていない。
「だ、誰か回復術師を!!」
「ま、魔物の呪いか!?」
違う。
これは、ただの呪いじゃない。少なくとも、そういう言葉で片づけていいものではない。
その時、胸元のソノンが小さく光った。
『観測補助開始』
俺の視界に、青い波形が展開される。
それはまるで、心電図モニターのようだった。乱れた波、異常なリズム、途切れかけた流れ。だが、その奥に、もっと妙なものが見えた。
黒いノイズ。
心臓そのものではない。もっと深い場所から、何かがカルジオの脈に干渉している。身体の奥底、通常の観測では届かない領域に潜り込み、心臓のリズムを無理やり歪めている。
『深層異常反応。原因は循環器ではありません』
「……なんだって?」
その瞬間、カルジオの背中が、黒く脈打った。
第1章「観測士」をお読みいただき,ありがとうございました。
この章では,主人公が置かれている立場と,「観測士」という役割の入り口を描きました。
攻撃できない。
戦えない。
目立った力もない。
けれど,世界の異常に気づくということは,もしかすると誰よりも危険で,誰よりも重要な力なのかもしれません。
次章では,しろい塔の町で起きる小さな異変が,少しずつ物語を動かしていきます。
ブックマークや評価をいただけると,今後の執筆の大きな励みになります。
引き続き,この物語を見守っていただけましたら幸いです。




