第五話 善人は謝り慣れていない
「『人』に言ったんじゃないんです」
ヒカリの声は小さかった。
でも、その場の全員がその小さな声に耳をすましていた。
部屋が静かになる。
外の世界では今も炎上が広がっているはずなのに、この部屋だけ時間が止まったみたいだった。
「……どういう意味ですか?」
俺が聞く。
ヒカリは少しだけ視線を落とした。
「配信のコメントです」
「コメント?」
「ずっと荒らしみたいなアカウントがいて……」
ヒカリの指先が小さく震えていた。
でも、それ以上に気になったのは呼吸だった。
浅い。
少し乱れている。
この人は今も『怒られない言葉』を探しながら喋っている。
「毎回、死ねとか、消えろとか、偽善者とか……いっぱい来て」
レイが少しだけ真顔になる。
たぶん珍しい。
「で、その時?」
「配信を切り忘れて……」
ヒカリは唇を噛んだ。
「小さく『死ねばいいのに』って……」
「なるほど」
相模原が頷く。
でも、その目はヒカリじゃなくタブレットを見ていた。
もう『炎上素材』として整理し始めている。
「切り抜きとしては優秀ですね」
気味が悪いぐらい冷静だった。
「善人キャラ。暴言。切り抜き映え。拡散速度も出る」
ヒカリの肩が少しだけ縮こまる。
その瞬間、俺は気づく。
この人。
怒鳴られるより『失望される』方が怖いんだ。
「天音さん」
相模原が柔らかく言った。
「今から1番やってはいけないことを教えます」
ヒカリが顔を上げる。
「『本当のことを全部話す』ことです」
レイが「うわ」と呟いた。
でも相模原は続ける。
「人は真実が好きなんじゃない。『納得できる物語』が好きなんです」
静かな声。
説明会みたいだった。
「今回必要なのは『疲れていた天音ヒカリ』です」
「……」
「誹謗中傷に追い詰められていた。精神的に限界だった。だから失言した」
相模原は淡々と言葉を並べていく。
「これなら世間は理解できる」
「でも」
ヒカリが小さく言った。
「それだけじゃ……」
「全部説明すると燃えます」
相模原は即答した。
「人は情報量が多いと、『隠してる』と感じる」
怖かった。
この人は炎上した人間より、炎上を見る側のことを理解している。
「有馬」
「はい」
「今の世論分析」
俺はタブレットを開く。
リアルタイム感情分析。
怒り、六十二パーセント。
失望、二十一パーセント。
嘲笑、十一パーセント。
同情、六パーセント。
まだ最悪だった。
「女性層の離脱が始まってます」
「理由は」
「『裏切られた感』です」
画面をスクロールする。
『信じてたのに』
『ショック』
『もう見たくない』
『結局こういう人だったんだ』
ヒカリが画面を見て少しだけ俯いた。
でも泣かなかった。
泣くことすらできない感じだった。
いや。
泣いていいかどうかも、分からなくなっているように見えた。
「天音さん」
俺は口を開く。
「あなた、普段から謝ること多いですか」
ヒカリが少し驚いた顔をした。
「え……?」
「例えばスタッフとか、家族とか、配信とか」
数秒沈黙。
それからヒカリは小さく笑った。
困った時に愛想笑いする人間の笑い方だった。
「……よく、謝ります」
やっぱり。
「有馬くん?」
レイが怪訝そうな顔をする。
でも、たぶん間違ってない。
本当に善人な人間って『怒られる前に謝る』。
空気が悪くなる前に謝る。
嫌われる前に謝る。
怒りを向けられる前に自分の方から少しだけ小さくなる。
そうすればその場は丸く収まる。
そうやって何年も生きてきた人間がいきなり何万人にも同時に怒られる。
そんなものに慣れているわけがない。
「相模原さん」
俺はタブレットを閉じた。
「この人、謝罪向いてないです」
ヒカリが少し傷ついた顔をした。
その顔を見て少しだけ言い方を間違えたと思った。
でも、撤回はできなかった。
今この人に必要なのは綺麗な励ましじゃない。
少なくとも俺はそう思いたかった。
相模原だけが笑った。
また、『面白くなってきた時』の笑い方だった。
「いい視点だ、有馬」
その瞬間。
俺は少しだけ後悔した。
この人に褒められると自分まで何か壊れていく気がする。




