第十一話 これは謝罪ではない
「これはたぶん、謝罪動画じゃなくて」
俺はヒカリを見た。
「返事です」
部屋の空気が変わった。
誰もすぐには喋らない。
相模原だけが俺を見ていた。
目が笑っていなかった。
「有馬」
「はい」
「その判断は業務として間違っている」
「分かってます」
「分かっているなら止めろ」
声は荒くなかった。
むしろいつも通り穏やかだった。
だから余計に怖い。
相模原は怒鳴らない。
この人は人を動かす時に大きな声を使わない。
一番痛いところに正しい言葉を置く。
「天音ヒカリを救うには世間に向けて謝る必要がある」
相模原は言った。
「今、特定の一人に返事をすれば八万人の視聴者は置いていかれたと感じる」
「はい」
「置いていかれた視聴者は怒る」
「はい」
「怒りは拡散する」
「はい」
「分かっていてやるのか」
俺はタブレットを見た。
善人スコアはまだ落ちている。
72.8
72.1
71.6
数字が少しずつ削れていく。
人間の尊厳が表計算ソフトのセルみたいに更新されていく。
「やります」
俺が言うと、レイが小さく口笛を吹いた。
「おー」
「茶化すな」
「ごめん」
レイはすぐ黙った。
ヒカリは俺を見ていた。
不安そうだった。
でも、どこかで少しだけ息ができるようになった顔でもあった。
「……いいんですか」
ヒカリが聞く。
「よくはないです」
俺は即答した。
「たぶん燃えます」
「はい」
「相模原さんの言う通り、謝罪設計も崩れます」
「はい」
「それでも、何も言わない方がもっと悪い気がします」
その言葉は俺自身にも刺さった。
何も言わない方が楽なことは多い。
空気を悪くしない。
仕事を失わない。
誰にも嫌われない。
でもその結果、誰かが一人で勝手に壊れていく。
その壊れ方を俺たちは今、コメント欄越しに見ていた。
「一分だけです」
俺は言った。
「長く話したら終わります。説明したら言い訳になる。反論したら攻撃になる。謝罪にしたらミオさんの問いが消える」
「じゃあ何を言えばいいんですか」
ヒカリが聞く。
本気で分からない声だった。
俺は少し考えた。
答えは単純じゃなかった。
単純な言葉ほど、今は燃える。
『ごめんなさい』は軽い。
『そんなつもりじゃなかった』は最悪。
『私も苦しかった』は被害者ぶるなと言われる。
『説明させてください』は言い訳になる。
「まず、謝らないでください」
俺は言った。
ヒカリが目を見開く。
「謝らない?」
「最初には」
相模原が少しだけ眉を動かした。
「有馬」
「謝罪から入ると、これは謝罪動画になります」
俺は画面を見ながら続けた。
「でも今必要なのはミオさんの問いへの返事です」
配信の中で、ミオはまだ話していた。
『見えていたならどうして何も言ってくれなかったんですか』
コメント欄が流れる。
《答えろ》
《逃げるな》
《ヒカリ見てる?》
《謝罪まだ?》
《もう終わりだろ》
《善人スコア剥奪しろ》
「最初の一文は」
俺はタブレットに文字を打ち込む。
「『見えていました』」
ヒカリの喉が動いた。
「……それを言うんですか」
「はい」
「認めることになりますよね」
「そうです」
レイが小さく言う。
「うわ、強」
俺は続ける。
「次に、『でも助けられませんでした』」
ヒカリの顔が少し歪んだ。
「それは……」
「言い訳しない」
俺は言った。
「今、事情を全部出すと燃えます。でも、何も感じていなかった人間にされるのも違う」
相模原が冷たく言う。
「感情を出せば燃える」
「はい」
「だから出さない」
「違います」
俺は相模原を見た。
「燃え方を選びます」
その瞬間、相模原の目が細くなった。
たぶん俺は、相模原の言葉を勝手に使った。
炎上を消すのではなく、燃え方を制限する。
さっき自分で言った言葉だ。
「続けろ」
相模原が言った。
許可ではない。
見極めだった。
俺はタブレットに文章を打ち込む。
指が少し震えている。
でも、言葉は出てくる。
『見えていました。』
『あなたが一人でいたことを私は知っていました。』
『それなのに、私は助けられませんでした。』
『私が声をかけることで、もっと悪くなると思っていました。』
『でも、そう思ったことを理由にして、何もしなかった事実は消えません。』
ヒカリが画面を見て、息を止めた。
レイも黙っている。
スタッフたちも動かない。
相模原だけが表情を変えずに読んでいた。
「……これ」
ヒカリが小さく言う。
「私が言っていいんですか」
「あなたが言わないと意味がないです」
「でも、これを言ったら」
「燃えます」
俺は言った。
「ただし、たぶん少しだけ燃え方が変わります」
「どういうふうに」
「『嘘つきの善人』から『何もしなかった人』になる」
ヒカリは黙った。
優しくはない言い方だった。
でも、今は優しい言葉の方が残酷だった。
「それは、いいことなんですか」
「分かりません」
俺は正直に言った。
「でも、嘘よりはマシです」
ヒカリは少しだけ俯いた。
その表情を見て、俺は思った。
この人はたぶん、今までずっと嘘をつかずに生きようとしてきた。
でも、嘘をつかないことと、人を傷つけないことは違う。
その違いに今やっと追いつこうとしている。
「短くします」
俺は文章を削る。
説明を削る。
事情を削る。
言い訳になりそうなところを削る。
削れば削るほど、言葉が痛くなる。
最後に残ったのはほとんど傷口だった。
『見えていました。』
『あなたが一人でいたことを、私は知っていました。』
『それでも私は助けられませんでした。』
『何もしなかったことをなかったことにはしません。』
『今さら許してほしいとは言いません。』
『ただ、あなたは見えていなかったわけじゃありません。』
『私は、見えていたのに動けませんでした。』
部屋が静かになる。
レイがぽつりと言った。
「……謝ってないのに謝罪より痛いね」
「謝罪じゃないですから」
俺は言った。
「返事です」
ヒカリは画面を見つめていた。
何度も読んでいる。
読みながら、少しずつ顔色が変わっていく。
怯え
後悔
迷い
それから覚悟みたいなもの。
「これを」
ヒカリが言った。
「私の声で言います」
スタッフの一人が慌てて前に出た。
「待ってください。事務所としては正式な確認を――」
「今確認している時間はありません」
相模原が遮った。
スタッフが驚いて相模原を見る。
俺も見た。
相模原は表情を変えない。
「ただし」
相模原は俺に視線を向ける。
「やるならこちらで制御する」
「配信に乗るんですか」
「直接コメントは危険だ。本人確認が取れた瞬間に荒れる」
相模原はタブレットを操作する。
「まずは音声だけ。顔は出さない。スタッフの端末から一分だけ音声を流す」
レイが目を丸くする。
「乗るんだ?」
「これは炎上対応では最悪です」
相模原は淡々と言った。
「だが、物語としては強い」
その言葉に俺は嫌な気分になった。
結局この人はそこを見る。
誰かが誰かに答えることさえ、炎上の物語として処理する。
でも今はその技術が必要だった。
嫌でも。
「天音さん」
相模原がヒカリを見る。
「一度だけです」
「はい」
「泣かない。怒らない。説明しない」
「はい」
「許してほしいと言わない」
「……はい」
「最後に謝罪を入れるな。謝れば、視聴者は謝罪として受け取る」
ヒカリは頷いた。
「分かりました」
その返事は、さっきまでより少しだけ強かった。
レイがスマホを見ながら言う。
「ミオ、まだ呼びかけてる」
配信画面の中で、ミオは黙っていた。
コメント欄だけが流れている。
《本人逃げた?》
《見てないでしょ》
《事務所が止めてる》
《答えられないってことはそういうこと》
《ヒカリ終わった》
ミオはカメラを見ている。
疲れた顔だった。
でも、そこには明らかに待っている表情があった。
怒りだけじゃない。
期待でもない。
もっと嫌なもの。
返ってこないと分かっている返事をそれでも待っている人間の顔。
「準備できました」
スタッフが言った。
相模原が頷く。
「有馬、最終確認」
俺はヒカリを見る。
「読めますか」
ヒカリは小さく息を吸った。
そして頷いた。
「読めます」
「途中で止まってもいいです」
「止まりません」
初めて、即答だった。
俺は少し驚く。
ヒカリは画面を見ている。
「これだけは最後まで言います」
その声にもう愛想笑いはなかった。
相模原が手を上げる。
「繋げ」
スタッフが配信画面の通話リクエストを送る。
数秒。
コメント欄がざわつく。
《え?》
《誰?》
《関係者?》
《通話来た?》
《まさか本人?》
ミオが画面の向こうで固まった。
『……誰ですか』
スタッフが音声を接続する。
部屋の全員が息を止めた。
ヒカリがスマホを両手で持つ。
指が震えている。
でも、逃げなかった。
「天音ヒカリです」
コメント欄が爆発した。
《本人!?》
《きた》
《マジ?》
《逃げんなよ》
《謝罪しろ》
《音声だけ?》
《顔出せ》
ミオは画面の向こうで何も言わなかった。
ただ、目だけが少し揺れた。
ヒカリは画面を見つめる。
そして、言った。
「見えていました」
部屋の空気が止まる。
配信のコメント欄も一瞬だけ速度が落ちたように見えた。
「あなたが一人でいたことを私は知っていました」
ミオの顔が少し歪む。
ヒカリの声は震えていた。
でも、逃げていない。
「それでも私は助けられませんでした」
コメント欄がまた流れ出す。
《認めた》
《終わった》
《最低》
《でも聞け》
《言い訳くるぞ》
《黙って聞け》
「何もしなかったことをなかったことにはしません」
ヒカリは続ける。
「今さら許してほしいとは言いません」
ミオの唇が少し開く。
何か言おうとして、言わない。
「ただ」
ヒカリの声が、少しだけ揺れた。
でも、そこで止まらなかった。
「あなたは見えていなかったわけじゃありません」
部屋の中で、誰かが息を呑んだ。
「私は見えていたのに」
ヒカリは言った。
「動けませんでした」
沈黙。
配信の中も。
この部屋も。
一瞬だけ、本当に静かになった。
それは、炎上が止まった静けさじゃない。
誰も次の言葉を見つけられない静けさだった。
ミオは画面の向こうでしばらく黙っていた。
それから小さく笑った。
泣いているようにも見えた。
怒っているようにも見えた。
『……最低』
ヒカリは目を伏せなかった。
『最低です』
ミオがもう一度言う。
コメント欄がざわつく。
《そりゃそう》
《謝れよ》
《でも逃げなかった》
《これどうなん》
《最低って言えるの強い》
《なんか空気変わった?》
ヒカリは何も言わなかった。
謝らなかった。
言い返さなかった。
ただ、その言葉を受けた。
ミオは少しだけ息を吐く。
『私、それを言ってほしかったわけじゃないです』
ヒカリの指が、スマホを握る。
『でも』
ミオの声が震えた。
初めて。
『見えてたって言われたかったです』
ヒカリの目に涙が溜まる。
でも泣かない。
泣いたら、自分のためになるから。
そう思っている顔だった。
ミオは画面から少し視線を逸らした。
『切ります』
通話が切れた。
配信画面には、ミオだけが残る。
コメント欄は荒れていた。
《え?》
《終わり?》
《これで許すな》
《いやでもこれは》
《ヒカリ最低》
《ミオさん大丈夫?》
《謝罪しろ》
《謝ってないの逆に怖い》
《でも逃げなかった》
評価は割れ始めていた。
完全な鎮火ではない。
むしろ火は大きくなったかもしれない。
でも。
炎の色が少しだけ変わった。
レイが画面を見ながら呟く。
「……空気、割れたね」
相模原はタブレットを見ていた。
「善人スコア」
俺は確認する。
71.2。
70.9。
70.4。
まだ落ちている。
ぎりぎり。
七十を切る寸前。
でも、コメント分析が変わっていた。
怒り。
失望。
嘲笑。
その横に新しい項目が増えている。
迷い。
8%
俺はその数字を見つめた。
たった8%。
でも、炎上の中で迷いが生まれるのは珍しい。
人は、一度正義側に立つと迷いたがらない。
迷うと、自分が叩いていた言葉まで疑わなきゃいけなくなるからだ。
「最悪ではないですね」
俺が言うと、相模原が静かに笑った。
「いや」
相模原はタブレットをこちらに向ける。
そこには別の通知が出ていた。
《天音ヒカリ、被害者配信に乱入》
《謝罪なし》
《いじめ被害者に「見えていた」と発言》
《善人スコア70.1》
レイが顔をしかめる。
「うわ、タイトル最悪」
「でしょうね」
相模原は淡々と言った。
「物語はもう次の形に変わった」
ヒカリはスマホを見つめていた。
自分が何をしたのか、まだ整理できていない顔だった。
でも、さっきより少しだけ呼吸が深かった。
たぶん。
ほんの少しだけ。
自分の言葉で立っていた。
その時。
善人スコアが更新された。
70.0。
部屋の全員が画面を見る。
次の瞬間。
69.9。
数字が、七十を切った。
誰も声を出さなかった。
ヒカリも
レイも
スタッフも
俺も
相模原だけが小さく息を吐いた。
「ここからですね」
その声はやっぱり少し楽しそうだった。
ヒカリは画面を見つめていた。
善人スコア69.9。
もう『一般人が安心して攻撃できるライン』の下。
守られる側ではない。
疑われる側。
許されるかどうかを他人に決められる側。
それでもヒカリはさっきより少しだけ真っ直ぐ座っていた。
俺はその横顔を見て思った。
この人は今、善人スコアを失った。
でも
初めて、善人じゃない言葉を手に入れたのかもしれない。




