第十話 善意は時々、人を刺す
「私が優しくすると、その子がもっと嫌われる空気だったんです」
部屋の空気が完全に止まった。
誰もすぐには喋らなかった。
レイも。
スタッフも。
相模原でさえ少しだけ黙っていた。
ヒカリは自分の手元を見ていた。
膝の上で指が白くなるほど握られている。
「……どういうことですか」
俺が聞く。
ヒカリはすぐには答えなかった。
喉が小さく動く。
たぶん、何度も飲み込んできた言葉なんだと思う。
「その子は……」
ヒカリはゆっくり言った。
「私と仲が良いと思われるのを嫌がられていました」
「誰に」
「クラスの子たちに」
声は小さい。
でも、さっきより逃げていなかった。
「私、当時から少しだけテレビに出ていて……先生にも頼られてて、クラス委員で」
「あー」
レイが低く呟いた。
「クラスの模範生枠ね」
ヒカリは小さく頷いた。
「だから私が何かするとすぐ目立つんです」
部屋のモニターではまだ同級生の配信が続いていた。
コメント欄は流れ続けている。
《言い訳くる?》
《ヒカリ側の反論まだ?》
《本人見てる?》
《謝罪しろ》
《何もしなかった罪》
画面の向こうはもう判決を出していた。
でもこの部屋にはまだ判決にならない言葉が残っていた。
「最初は声をかけました」
ヒカリが言った。
「体育のペア決めでその子が余っていて」
ヒカリの視線が少し遠くなる。
今ではない場所を見ている目だった。
「私が『一緒にやろう』って言ったんです」
「いい話じゃん」
レイが言いかけて、途中で止めた。
たぶん、その先がいい話じゃないと分かったんだろう。
ヒカリは首を横に振った。
「その日の放課後、その子の机にプリントが貼られていました」
部屋が静かになる。
「『天音のお気に入り』って」
誰も笑わなかった。
「それからその子が通るたびに、みんな小さく笑うようになって」
ヒカリの声が少し震えた。
「私が話しかけるたびに、余計にその子が浮くようになりました」
相模原が口を開く。
「それで、距離を取った」
ヒカリは頷いた。
「はい」
「誰かに相談は」
「先生に言いました」
「結果は」
ヒカリは少しだけ笑った。
愛想笑いじゃない。
諦めた人間の笑い方だった。
「先生はその子を呼び出しました」
「あー……」
レイが顔をしかめる。
「最悪のやつ」
「その後、もっと悪くなりました」
ヒカリは言った。
「私が先生に言ったって、すぐ分かって」
「でしょうね」
相模原は淡々と言う。
「閉じた集団では正しい手続きが一番目立つ」
その言葉は正しかった。
だから腹が立つ。
「それで、私は……」
ヒカリは言葉を切った。
「何もしない方がいいと思いました」
モニターの中では同級生がまだ話している。
『ヒカリさんはいつも正しい側にいました』
その声が部屋に響く。
『先生にも好かれて、みんなにも好かれて、何をしても許される場所にいた』
コメント欄。
《いるいる》
《正しい側の人間が一番きつい》
《善人ぶってる奴ほど残酷》
《これ完全に加害者じゃん》
ヒカリは画面を見ていない。
でも、聞こえてはいる。
「……許される場所なんかじゃなかった」
小さく呟いた。
本当に小さい声だった。
でも、俺には聞こえた。
「天音さん」
相模原が言う。
「今の説明は世間には出せません」
ヒカリが顔を上げる。
「どうしてですか」
「言い訳に見える」
即答だった。
「でも、本当です」
「本当かどうかは関係ありません」
相模原の声は冷たい。
「世間が聞きたいのはあなたの事情ではない。自分たちが怒っていい理由です」
レイが舌打ちした。
「言い方」
「正確に言っています」
相模原は表情を変えない。
「今の話を出せばこうなります」
相模原はタブレットを操作する。
画面に想定コメントが並ぶ。
『結局自分を守っただけ』
『声をかけたら悪化する?言い訳乙』
『先生に言ったなら自分は悪くないってこと?』
『被害者ぶるな』
『何もしなかった事実は変わらない』
ヒカリの顔が少しずつ白くなる。
「やめましょうよ」
レイが言った。
珍しく低い声だった。
「今それ見せる必要ある?」
「あります」
相模原は言う。
「現実ですから」
「現実って便利な言葉だね」
レイが吐き捨てる。
部屋の空気が少しだけ尖る。
ヒカリが慌てて顔を上げた。
「大丈夫です」
まただ。
空気が悪くなると、真っ先に自分が下がろうとする。
「大丈夫なので……」
全然大丈夫じゃない声だった。
俺はタブレットを見た。
善人スコア。
74.2。
73.6。
72.8。
落ちている。
人間の過去が掘られて誰かの痛みが配信されて、コメント欄が盛り上がって。
その結果が数字として落ちていく。
ひどく清潔な暴力だった。
「配信者の名前は」
俺はレイに聞いた。
「アカウント名はミオ。たぶん本名じゃない」
「高校の同級生で、浮いていた子」
「うん」
レイが画面を見ながら言う。
「今、同接八万」
「八万?」
スタッフの一人が声を漏らした。
レイは頷く。
「伸びすぎ。もうニュース番組より見られてる」
配信の女、ミオはカメラを見ていた。
『私は、天音ヒカリさんに謝ってほしいわけじゃありません』
コメント欄が一瞬ざわつく。
《え?》
《じゃあ何?》
《謝らせろよ》
《優しい》
《いや怖い》
ミオは続ける。
『ただ、聞きたいんです』
画面の向こうで彼女は少しだけ笑った。
壊れた笑い方ではなかった。
でも、明るくもなかった。
『あの時、私のこと見えてましたか』
ヒカリの呼吸が止まる。
『私が一人でいること、知ってましたか』
コメント欄の速度が上がる。
『知ってて何もしなかったんですか』
部屋の誰も動けなかった。
その問いは謝罪文では処理できない。
炎上対応マニュアルにも載っていない。
「……答えちゃダメですよね」
ヒカリが言った。
相模原を見る。
相模原は頷く。
「今答えれば相手の土俵に乗ることになる」
「ですよね」
ヒカリは小さく笑った。
また、困った時の笑い方。
でも次の瞬間。
その笑顔が少しだけ崩れた。
「でも」
ヒカリは画面を見る。
初めて、ちゃんと見た。
ミオの顔を。
流れていくコメントを。
自分を責める言葉を。
その全部を見た上で言った。
「答えないと、また何もしなかったことになりますよね」
レイが息を呑んだ。
相模原の目が細くなる。
「天音さん」
声が少し低くなった。
「感情で動くな」
「はい」
ヒカリは頷いた。
「でも、これだけは」
その声は震えていた。
でも、さっきまでとは違った。
怒られない言葉を探している声じゃない。
怒られても言わなきゃいけない言葉を探している声だった。
「これだけは私が黙ったらダメな気がします」
俺はヒカリを見た。
初めてだった。
この人が空気より自分の言葉を選ぼうとしている。
相模原がゆっくり立ち上がる。
「やめた方がいい」
柔らかい声だった。
でも、圧があった。
「あなたが今話せば謝罪設計が崩れます」
「すみません」
ヒカリは言った。
謝った。
でも、下がらなかった。
「崩してもいいです」
部屋の空気が変わる。
レイが小さく笑った。
「お」
相模原は笑わなかった。
ヒカリはスマホを手に取る。
スタッフが慌てて止めようとした。
「天音さん、今SNSは――」
「投稿しません」
ヒカリは言った。
「配信を見ます」
「今見てます」
「ちゃんと見ます」
その言葉にスタッフは黙った。
ヒカリはミオの配信を自分のスマホで開いた。
コメント欄が流れる。
ヒカリ本人が見ていることなんて誰も知らない。
それでも彼女は画面を見た。
逃げずに。
ミオの声が流れる。
『天音ヒカリさん。見ているなら答えてください』
部屋の誰も喋らない。
ヒカリは画面を見つめていた。
そして、小さく言った。
「見えてました」
もちろん、その声は配信には届かない。
この部屋の中にだけ落ちる。
「見えてました」
もう一度、ヒカリは言った。
今度は少し強く。
「でも私はあなたを助けられませんでした」
その瞬間。
相模原が静かに言った。
「それを外に出したら、終わりますよ」
ヒカリは相模原を見た。
「分かってます」
「分かっていない」
相模原の声はまだ穏やかだった。
でも、初めて少しだけ苛立ちが混じっていた。
「あなたは今、被害者一人に答えようとしている。だが外には八万人がいる。その八万人はあなたの言葉を聞くためではなく、燃える瞬間を見るために集まっている」
「それでも」
ヒカリが言った。
「一人に答えないといけない時ってあると思います」
部屋が静かになる。
俺は少しだけ息を止めた。
それはたぶん、正しい言葉だった。
でも、この仕事では一番危ない言葉だった。
相模原はヒカリを見ていた。
まるで初めて商品ではなく人間を見たみたいに。
「有馬」
「はい」
「止めろ」
命令だった。
俺はヒカリを見る。
ヒカリもこちらを見る。
その目はまだ怖がっていた。
でも、さっきまでみたいに人に嫌われないようにしている目ではなかった。
嫌われても何かを間違えたくない人間の目だった。
俺は口を開く。
止めるべきだった。
仕事なら。
この炎上を収めるなら。
天音ヒカリを『まだ許してもいい人間』に戻すなら。
でも。
「……一分だけです」
俺は言った。
相模原の表情が止まる。
レイが「マジ?」と呟く。
「一分だけ、言葉を作ります」
ヒカリが目を見開く。
「ただし、謝罪じゃない」
俺はタブレットを開いた。
「言い訳でもない。反論でもない」
相模原が低い声で言う。
「有馬」
俺は画面を見たまま答える。
「分かってます」
指先が少し震えていた。
でも止まらなかった。
「これはたぶん、謝罪動画じゃなくて」
俺はヒカリを見た。
「返事です」
ヒカリが小さく息を呑む。
外ではまだ炎上が広がっている。
コメント欄は血の匂いに群がっている。
善人スコアは落ち続けている。
それでも。
初めて、この部屋の中だけは、少し違う空気になった。
誰かを許させるための空気じゃない。
誰かに答えるための空気だった。




