令嬢、王城に上がる
一度失敗しましたので削除いたしました。二度目の投稿となります。申し訳ありません。
夜の帳が辺りを既に覆い尽くし幾許か。
動物すらその身を隠す暗闇の中を数頭の馬が疾走していく。その蹄に激しく土が跳ね返され、ぐしゃりと草が踏みつぶされる。
先頭の馬を駆る人物がその身を起こし、腕を振るった。ひゅんっと風を切る音が響き、後続の一頭の馬が断末魔の声を響かせて崩れ落ちる。
それを振りかえることなく残りの後続の馬は追走してくる。それにちっと舌打ちをして、騎手はその身を再び屈めて鐙を蹴った。
先頭の馬は縦横無尽に駆け、何とか後続を引き離そうともがく。しかしその馬の口から止め処なく溢れる唾液が、限界を訴えていた。騎手はその首をそっと撫で、何かを囁く。
騎手は背筋を起こし、再びナイフを構えた。その顔身体には汗が溢れ、死の恐怖に晒される身は真っ青だ。けれど騎手は諦めない。
栗毛の馬が更なる暗闇に身を隠し、その後を黒毛の馬が追う。
暫くの後、甲高い馬の嘶きが森に響き渡る。
絶望を覚悟した悲痛な叫びだった。
胃が引っ張られる様な不快感が体を走り抜け、頬を引きつらせる間もなく騎手の体が宙に投げ出された。
視界が回転し、悲鳴すら口から出てこない。下は崖だということは理解しているのに。必死で握りしめた手綱も虚しく、その馬体が大きく傾きその馬上の人物諸共崩れ落ちていく。
ひゅうと風が耳を撫でて、全ての音が遠のいた。その身が重力から一瞬だけ解放され、つかの間の平穏が訪れる。
―――その命の瀬戸際というのは、コマ送りのように見えるとは聞くけど。
その緑の目に映る女の顔がこれ以上ないほど鮮明に、細部まで見れた。その視線の主が凝視する先で相手の目は大きく見開かれ、次いでその唇が弧を描いた。
歓喜の頬笑みだった。
「ごめん、レイ」
ぽつりと呟いた言葉を最後に騎手は重力に捕まった。
そのまま崖に落下していく中で、騎手ーーーールナディアは王城に上がったその日のことを思い出していた。
「・・・・」
「けほっ」
「・・・・・」
「けほっ・・・げほげほげほっ!くしゅんっ!」
「・・・・・」
「けほけほ、げほげほッ!!」
「あ、あの」
「・・・あぁ、は、くしゅんっ!!けほけほけほっ!」
「あの・・・大丈夫ですの?」
「え、ええ、勿論ですと・・・っげほげほげほげほげほ!」
「ああ!御労しい、ルナディアさまっ!」
栗色の髪の侍女がそそくさとソファに座る主に駆け寄る。その背中を甲斐甲斐しく撫で摩り、新しいハンカチをさっと渡した。
その主はというと右手のハンカチを口に当てており、左手は分厚くしかも赤茶色という、どうにも若い彼女がその傍に置くべきとも言えない膝掛けをぎゅっと握りしめている。
顔はまるで陶器のように真っ白で、細かく息をつくその唇は青い。伏し目がちの麗しい目にも真っ黒な隈が居着いていた。
目の前に置かれたお茶には一切口を付けておらず、その部屋の主を尻目にお茶を飲めるほど相手は図太くなかったようだ。それどころかどこか怯えるようにそのお茶を見ている。病原菌でも入っていると思っているかのようである。
「貴女、以前は健康そうではなかったかしら?」
どこか疑わしげな視線を向けようと相手の女は努力しているようであったが、不安が混じっている事を到底隠し切れてなどいない。
ハンカチで口を押さえ、睫毛を小刻みに揺らす美麗の女がどんな顔をしているのか、窺い知れない事が余計に彼女の不安を煽るようであった。
なんとかその真っ赤なルージュの引かれた唇を歪ませるように笑みの形に変えた女は、ぱんっと扇を開いた。
「私、王の開いた舞踏会にも、ち、ろ、ん、参加していましたの。貴女、そのように病気持ちでありながら陛下の御側に近づいたの?大事な御身体に移りでもしたらどうするおつもりでしたのかしら?」
「・・・私のこの病、人に移るものではありませんわ。ただ人より身体が弱いと言われておりますの。とっくの昔に知られている事実だと思いましたが―――」
ちらりと流し眼を送ったこの部屋の主は、正確に女を射竦める。しかし女も身体をびくつかせながらも虚勢を張ろうと踏ん反り返った。
「でしたらっ、あのダンスどう説明いたしますの?私だけでなく皆が貴女が健康な体で躍るのを見ていましてよ?!」
「それでしたら。テルミア申し上げて差し上げて」
「侍女?なぜ侍女に申しつける必要が・・・」
「は、はい!ルナディア様」
困惑する女を尻目に、侍女と主はにっこり笑いあった。ごそりと侍女はその服から一枚の紙を取り出す。まるで巻物のようなそれをばっと開き、こほんとひとつ咳払い。そして声高々に読み上げ始めた。
「では僭越ながら―――舞踏会当日におきますルナディア様の御薬を読み上げます。まず伯爵家特製の栄養ドリンクが十本。次に吐き気止め、頭痛薬、腹痛薬、咳止めを合わせまして18錠。さらに酔い止め、精神安定剤、筋肉増強剤を加えまして、更に点滴を朝早くから受けられ、その後ドレス着用に合わせまして化粧では隠しきれないその御顔の色を誤魔化すために多少の気付け薬。その後馬車の中にて―――」
途中だというのに、貴婦人はふらりと立ち上がった。それをきょとんとして見つめる部屋の主と侍女に一瞥をくれて彼女は深くため息を吐いた。
「邪魔したわね・・・」
ばたんと閉じられた扉を二人は眺めて、視線を合わせる。
しんと静まり返った部屋で聞き耳を立てる二人はぴくりとも動かない。しばらくそのままで停止していた二人だが、主の方が小さく口を動かした。
「・・・帰った?」
「帰ったようですわ」
「確か?」
「私も気配が遠ざかるのを感じました!」
「―――はぁ」
ハンカチをぽいと机の上に投げ出して、ごきりと肩を鳴らした女はソファに倒れ込む。顔は未だ真っ白で隈もあるが、先程までの倦怠感など感じさせない雰囲気へと変貌していた。
軽い仕様のドレスを煩わし気に手で払い、彼女は眉間を揉んだ。
「・・・あの方が最後よね?」
「そうです。ルナディア様!」
ぐったりとしたまま呟く主に、水を張った盥を持った侍女が微笑みかけた。
「それ、やめないの?」
「す、すみません、今やルナディア様は私の主ですから」
申し訳なさそうな顔だが、一度引いたこの境界線を越すつもりはさらさらないらしい。
そのことにルディは嘆息し、結っていた髪を解いた。ばさりと銀の髪が肩を流れ落ち、その様を見る侍女は目を細める。相も変わらず自分の女としての美貌を自覚していない主は、行動一つに色気があることに気付いていないのだろう。
女性を落とすことにかけてはその顔を最大限活用する癖に、いざ男の前になるとどうでもいいと言わんばかりにその顔を歪めるのだ。
「それじゃあ私の王城ライフは明日から始まるのね―――」
ばっと赤茶色の膝掛けを放ってルディは立ち上がり、深い笑みを浮かべた。
ここは王城。
国王レーナルト・シュナンベルムの居城である。
荘厳な石造りの城は何度も改築を繰り返され、高く広いその姿を城下に晒している。
今日に至るまで何世代にも渡る王がそこに君臨し、国を動かしてきた。
その影には必ず女がいる。側室と呼ばれる彼らが国庫を食い荒らした時代もあり、今や側室達専用のテリトリーすら存在している。
そしてルディがいるのはその一つに数えられる部屋だ。
ただし彼女は身体が弱いということになっているため、医務室が最も近い部屋が条件となり新しく追加された形の部屋である。療養場所の一つとして扱われたその部屋が側室の部屋となったのは初の事で、議会を紛糾させたそうだ。
しかし初めて王から囲うと宣言した女への執着心は並外れており、押し通す形でルディの部屋と相成った。
そのため彼女の部屋は普通の側室の部屋からは離れており、かつ陛下の部屋を通り過ぎた側室としては辺鄙な場所に位置している。
様々な思惑があっての位置だが、そんなことをルディは気になどしない。
この部屋に今後いるのは実質幽霊側室と化すルナディア・ドルトナンド伯爵令嬢の予定だからだ。
「ふふふ・・・五日も閉じ込められて全く身体が鈍ってしまうわ」
こきりと首を鳴らすルディの顔は、顔色を悪く見せる為の化粧も手伝ってかなり不気味だ。
「私もです。せ、折角突貫作業でスティールナ夫人に特訓していただいたのに!」
「三か月前の姿が思い出せないわよ」
「本当ですか!!」
「おっちょこちょいなところは一切変わっていないけれどね」
がっくりと肩を落とした侍女の肩にするりとルディは手を乗せる。
「大丈夫。それがテルミアの魅力なんだから」
「だ、男装バージョン入ってます・・・ルナディア様」
「だってこれから活躍できるじゃないか!こっちの手腕も鈍らないようにしておかないとね」
ウィンクするルディに、テルミアは困った顔をする。
一応令嬢で在らせられるルナディア嬢のために弁明しておくが、彼女の言う手腕とは勿論女性をエスコートする為の極めて健全な手腕の方である。
三か月前まで渋りに渋っていたルディが王城行きを決めた理由。
それは王が提示してきた条件にあった。
それは全てで五つあり、五つ目である『いつ何時でも王の来訪を許す』だけは最後まで渋っていたが、結局飲んだ。ただルディが大人しく彼に会うかということは微妙なところであったが。
今回のこの側室に召せられた理由に、『国を脅かす者のあぶり出し』が含まれている事も勿論承知の上だ。多くの理由が述べられるが、『王の剣』である自分にとって最も大きな仕事となるだろうとルディは感じていた。当然命が危ぶまれる事もあると聞かされていたが、そんなことは百も承知だ。何より他の淑女にそんな危険なことはさせられないと手を強く握りしめる。
「ルナディア!お疲れ様」
こんこんとノックの音が響いたが、全くもって待つ間もなく、ばんと扉を開けて入室してきた人物は輝くような笑顔を浮かべていた。それを直視してしまったテルミアはその顔をほんの少し赤く染めた。彼女も美形集団であるドルトナンド家で揉まれて多少は耐性がついたのだろう。その程度で済んでいるのは進歩である。
真っ向からそれを向けられた当事者である女は、頬を赤く染めるどころか全く迷惑そうに溜息を吐いていたが。
「陛下・・・お願いですから返事をお待ちください」
「いや、だって待っている間に君は逃げてしまうだろう?返事をせずに」
「・・・確かにそうですが」
「否定しないのは悲しいよ」
しゅんとしたその眼がそれでもルディを見つめている。
それを見たテルミアがくいとルディのドレスの袖を引っ張り囁いた。
「ルナディア様、わ、私は陛下の後ろに尻尾が見えます・・・」
「否定できない。どうしようか」