第91話 英雄、色を好む
保健室には、誰もいなかった。
保健の先生も、学園祭を見に出ているらしい。窓の外から、遠くの屋台の呼びこみの声が、かすかに聞こえてくるだけだった。消毒の薬の、つんとした匂いがした。
ソフィアは、フェイを寝台に座らせた。
「だいじょうぶ? どこか、冷やしたほうが……」
「だ、だいじょうぶ。もう、ほとんど平気」
本当だった。痛みは、波が引くように薄くなっていた。フェイの体は、治るのも早い。
「よかった……」
ソフィアが、寝台の横の椅子に、すとんと腰を下ろした。白い帽子が、少し斜めになっていた。
「ソフィ、帽子、ずれてるよ」
「え?」
フェイは、手を伸ばして、帽子をまっすぐに直した。
指先が、ソフィアの髪に触れた。さらさらしていて、花の匂いがした。
ソフィアが、動かなくなった。
「……ねえ、フェイ」
「うん?」
「メイがね、さっきお店を出るときに言ったの」
ソフィアは、前掛けの上で、両手の指を絡ませていた。
「姫様は、いつも皆さんに順番を譲ってばかりです、って」
「順番?」
「リアも、メイも、ずるいのよ」
ソフィアが、顔を上げた。
「私が、いちばん最初にあなたに会ったのに」
鹿狩りの山で、初めて会った日のことだった。
ソフィアは、椅子から立ち上がった。寝台に座ったフェイと、ちょうど目の高さが同じになる。
「ナースは、看病をするのがお仕事なんでしょう?」
「え? う、うん」
「だから、これは看病」
ソフィアの顔が、近づいてきた。
まつげが、長かった。
唇に、そっと、温かいものが触れた。
窓の外の呼びこみの声が、遠くなった。
ソフィアが、ゆっくりと離れた。顔が、帽子の赤い十字よりも、ずっと赤かった。
「……痛いの、治った?」
「…………うん」
そのとき、保健室の扉が、からりと開いた。
「巡回中だよ。誰かいるのかな……おや」
白い腕章をつけた会長が、戸口に立っていた。
寝台のフェイと、真っ赤なソフィアを、順番に見る。それから、ふっと口もとを緩めた。
「英雄、色を好む……か」
「何を言ってるんだ、君は」
会長の後ろから、低い声がした。
ノエル先生だった。腕を組んで、廊下の壁に寄りかかっている。
「先生、いつの間に……」
会長は、先生の顔を見た。眼鏡の奥の目が、寝台のほうへ、ちらりと動く。
「……おや? もしかして、先生もですか?」
「何の話だ」
「いえ、別に」
「見回りの途中だ。行くぞ、ヴァイスベルク」
先生は、さっさと廊下を歩きだした。会長は、肩をすくめて、フェイに片目をつぶってみせた。
「お大事に、フェイ君。……王女殿下も」
扉が閉まった。
ソフィアが、両手で顔を覆って、その場にしゃがみこんだ。
「……見られた……会長に……先生にも……」
フェイは、まだ、唇に指を当てたまま、動けなかった。




