第89話 合唱
ナース服の王女様が、男子生徒の手首をつかんで、廊下をずんずん歩いていく。
すれ違う人が、みんな振り返った。ソフィアは、前だけを見て歩いていた。帽子の下の耳が、ずっと赤い。
「ソフィ、どこ行くの?」
「……決めてないわ」
「決めてないの!?」
「い、いいの!」
ソフィアは、ぴたりと足を止めた。それから、つかんでいた手首を、ぱっと離した。
「……ごめんなさい。痛かった?」
「ううん、全然」
「そうよね。フェイだものね」
ソフィアは、ふうっと息を吐いた。肩から、少しだけ力が抜けた。
「メイがね。今日くらい、姫様がわがままを言ってもいいんですよ、って」
「わがまま?」
「なんでもない! 行きましょう。まずは、外の屋台」
中庭から門のほうへ、屋台がずらりと並んでいた。串焼きに、果物の蜜がけに、輪投げ。王都の町の店も、届けを出して何軒か入っている。
門の近くまで来たとき、フェイは、ふと足を止めた。
風が、生ぬるかった。
夏の終わりの乾いた風の中に、ひと筋だけ、人の肌みたいな温かさが混じっている。国境の街の中庭で、緑の石の小山から漂ってきたのと、同じ温かさだった。
人の列の向こうに、小さな屋台が1つあった。愛想のいい男が、来る人来る人に、何かを手渡している。
「フェイ? どうしたの?」
「ソフィ、あの屋台……」
そのとき、中庭のほうから、澄んだ歌声が流れてきた。
「あっ、始まっちゃう!」
ソフィアが、またフェイの手首をつかんだ。
「シエルたちの合唱よ! 朝からずっと、楽しみにしてたんだから!」
引っぱられながら、フェイは、もう一度だけ門を振り返った。屋台は、人の列に隠れて、もう見えなかった。リアの家の人が、見張っているはずだった。
中庭の真ん中に、木の台が組んであった。
白い服を着た生徒たちが、2列に並んで歌っていた。前の列の真ん中に、シエルがいた。両手を胸の前で組んで、目を閉じている。高い声が、中庭じゅうに、まっすぐ伸びていった。
後ろの列の端に、ブリジット先輩がいた。
背がいちばん高いので、すぐに分かった。顔が、がちがちにこわばっている。口は動いているのに、声が聞こえない。
「先輩、歌えてないね」
「しーっ」
曲の途中で、シエルが、ちらりと先輩のほうを見た。小さく、うなずく。
先輩が、すうっと息を吸った。
次の瞬間、低くて、よく通る声が、シエルの声の下に重なった。剣を握ったときと、同じ顔をしていた。
2つの声が、絡みあいながら、空へのぼっていく。中庭のざわめきが、いつのまにか止んでいた。ソフィアが、隣で、小さく息をのんだ。
手首に、ソフィアの指が、まだ触れていた。離れていくかと思ったら、そのまま、するりと下りてきて、フェイの指に絡んだ。
フェイは、前を向いたまま、その手を握り返した。




