第85話 ただいま
山のふもとで乗合馬車を降りると、蝉の声が、頭の上から降ってきた。
王都の蝉より、声が太い。フェイは、背負い袋をかつぎなおして、坂道を駆け上がった。夏休みは、あと10日残っていた。
沢を越えて、杉の林を抜ける。道の脇の草が、膝の高さまで伸びていた。フェイがいないあいだ、誰もここを踏まなかったのだ。
林が切れると、家が見えた。
畑の真ん中に、白いお団子頭がしゃがんでいる。
「ただいま!」
ハンナが、ゆっくりと腰を伸ばした。両手に、太った瓜を抱えている。
「おかえり。……あれまあ」
ハンナは、フェイを上から下まで眺めた。
「また伸びたねえ。山を下りる前に縫った服が、もうつんつるてんだよ」
「王都のご飯、おいしいんだもん」
家の戸口に、おじいちゃんが立っていた。長い眉の下から、じっとフェイを見ている。
「日課は、さぼっておらんな」
「さぼってないよ! 毎朝200回ずつ、やってる」
「うむ」
それだけ言って、おじいちゃんは家の中に引っこんだ。けれど、戸の向こうで、髭をなでる音がした。機嫌がいいときの癖だった。
その夜の食卓には、瓜の煮物と、鹿肉を焼いたのと、豆のスープが並んだ。
フェイは、食べながら、ずっと喋っていた。学園のこと。ソフィアとメイベルのこと。リアの家で、ゴルフをしたこと。国境の街で、病気の人たちを運んだこと。
「それでね、王宮に、おじいちゃんの絵があったんだよ」
おじいちゃんの匙が、止まった。
「若いころの絵。本を抱えてて、今のおじいちゃんと同じ持ち方してた。それで、王様がね、子どものころに山で迷子になって、おじいちゃんに肩車してもらったって」
ハンナが、ぷっと吹き出した。
「あれま。あの泣き虫の坊やが、今は王様かい」
「おばあちゃん、知ってるの?」
「知ってるも何も。この人ったら、あの日、帰ってくるなり、王子を泣かせてしもうたって、ひと晩じゅうしょげてたんだよ」
「ハンナ」
おじいちゃんが、低い声で言った。耳の先が、赤くなっていた。
「わしは、しょげてなどおらん」
「しょげてましたよ。夜中に、肩車がまずかったかのう、なんて言って」
「ハンナ」
フェイは、笑いをこらえきれなかった。おじいちゃんが、こんなふうに困っているのを見るのは、初めてだった。
「おじいちゃん、王様がすごく嬉しそうに話してたよ。道々、ずっと叱られてたって」
「……叱られて、嬉しそうにしておったのか?」
「うん」
おじいちゃんは、黙って豆のスープをすすった。
髭の先に、豆が1粒、くっついていた。ハンナが、それを指でつまんで取った。おじいちゃんは、何も言わなかった。




