第81話 半分の月
シエルが倒れたのは、街に着いて5日目の昼だった。
教会では、もう手が足りなかった。だからシエルは、自分から病人の家を回りはじめていた。修道女たちが止めても、聞かなかった。
「動けない方が、まだたくさんいるのです」
その日、パン屋の奥の部屋で、寝ている子どもに手をかざしていたシエルが、ふっと横に傾いた。
戸口にいたフェイが、床に倒れる前に抱きとめた。
軽かった。それに、熱かった。
「シエル!」
「……ごめんなさい……少し、目が……回って……」
顔が赤いのに、唇が白い。教会の藁布団で寝ている人たちと、同じ顔だった。
フェイは、シエルを抱き上げて、館まで走った。
館の客間の寝台に、シエルは寝かされた。医者が首を振り、ブリジット先輩が寝台の横で、シエルの手を握っていた。
「わたしが……止めるべきでした。護衛なのに……」
「先輩のせいじゃないです」
シエルが、うっすらと目を開けた。
「……嫌な予感、当たってしまいましたね」
弱々しく、笑った。
「でも……フェイさんが、いてくださるから……」
それだけ言って、シエルはまた目を閉じた。
その夜、フェイは教会の前の石段に座っていた。
眠れなかった。教会の中からは、ときどき、うなされる声が聞こえてくる。空には、半分の月が出ていた。昼間の熱が抜けた石が、尻にひんやりと冷たい。
足音が近づいてきて、隣に、誰かが腰を下ろした。
ノエル先生だった。
「見張りか?」
「……なんとなく、です」
先生は、何も言わずに、月を見上げた。
夜風が、先生の長い髪を揺らした。花のような匂いが、ふわりと流れてくる。森で、上着をかけてもらったときと、同じ匂いだった。
「私は、この街で何もできていない」
先生が、ぽつりと言った。
「病人の家には入れない。治癒の魔法も使えない。帳面に名前を書いて、水を汲んでいるだけだ」
「先生がいなかったら、おれ、どの家に行けばいいか分かりませんでした」
「そういうことを言っているんじゃない」
先生は、眼鏡を外した。指で、目頭を押さえる。
月明かりの中に、先生の素顔があった。
フェイは、息をのんだ。眼鏡が無いだけで、まるで別の人みたいだった。長いまつげが、月の光で、頬に細い影を落としている。
「……最初の授業で、君に見学でいいと言ったね」
「はい」
「名簿に魔力0と書いてあった。だから、何も教えられないと思った」
先生は、外した眼鏡を、手の中で転がした。
「それから、ずっと君を見ている。教えるつもりで見ていたはずなんだがな」
先生は、そこで言葉を切った。
フェイは、続きを待った。先生は、続けなかった。
「……先生?」
「なんでもない」
先生は、眼鏡をかけなおして、立ち上がった。
「少し寝ろ。君が倒れたら、この街は本当に終わる」
去っていく先生の耳が、月明かりでも分かるくらい、赤かった。




