第76話 辺境伯
「よく帰った、ジル! また背が伸びたか!? 伸びたな!」
大男は、馬から降りたブリジット先輩を、両腕でまるごと抱え上げた。先輩の足が、地面から離れて宙をかく。
「お、お父様! 下ろしてください、皆さんが見て……!」
「見せておけ! 俺の娘だ!」
ディートハルト・アイゼンガルト辺境伯。ブリジット先輩の父親だった。
短く刈った赤茶の髪に、同じ色の髭。腕は、フェイの太ももより太い。顔の左に、古い刀傷が1本走っていた。
辺境伯は、ようやく娘を下ろすと、馬車から降りたシエルの前に片膝をついた。
「聖女様。遠いところを、よくぞおいでくださった。アイゼンガルトは、心より感謝いたします」
さっきまでの大声が、嘘のように低く、静かだった。
「ノエル殿も。学園から、話は聞いております」
それから、辺境伯は立ち上がって、フェイを見た。
ブリジット先輩のすぐ横に、フェイは立っていた。
辺境伯の右手が、すうっと腰の剣の柄へ伸びた。
「……ジル。この小僧は?」
「い、1年のフェイさんです! シエル様のお手伝いに来てくださって……」
「1年の、小僧が。ジルの、隣に」
柄を握る指に、ぎりりと力がこもった。
「お父様!」
「冗談だ。……半分はな」
辺境伯は、柄から手を離した。けれど、目はフェイから離れなかった。
館に向かう道は、ひっそりとしていた。
店の戸は閉まり、窓という窓に、厚い布が下がっている。ときどき、布の向こうから、咳の音がした。通りを歩いているのは、口に布を巻いた年寄りばかりだった。
「ひと月ほど前からだ」
辺境伯が、前を見たまま言った。
「熱が出て、体に力が入らなくなる。ひどい者は、起き上がれなくなる。医者の薬が、まるで効かないのだ」
「どんな方がかかっているのですか?」
シエルが訊いた。
「それが、妙でな。魔力の多い者ほど、重い症状になる傾向があるのだ」
辺境伯の声が、低くなった。
「騎士団が、半分寝こんでいる。国境を守る兵が、だ。今、川の向こうから何か来られたら、この街は持たん」
ノエル先生が、眉をひそめた。
「医者は、魔力の多い者は病人の家に入るなと言っている。入った者から、倒れていったからな。だから、俺も入れん。……情けない話だ」
辺境伯は、刀傷のある頬を、太い指でかいた。
「聖女様の治癒の魔法だけが、頼みなのです」
シエルは、胸の前で両手を握った。小さな肩が、少しだけ震えていた。
「……できるかぎりのことを、いたします」
フェイは、閉まった窓を見上げた。
布の向こうの咳は、まだ続いていた。




