第62話 お嬢様を、勝たせたかった
「お嬢様!」
結界の外から、誰かが駆けこんできた。
ギュンターだった。
いつもぴしりと伸びていた背中が、丸まっていた。片眼鏡が外れて、鎖の先でぶらぶら揺れている。顔は、紙のように白かった。
ギュンターは、クラリッサの前に膝をついた。震える手で、クラリッサの肩に、腕に、頬に触れる。どこにも、けがが無いことを確かめるように。
「お嬢様……お怪我は……お怪我は、ございませんか……」
「ギュンター? 大丈夫よ、フェイが……」
クラリッサの言葉は、途中で止まった。
ギュンターが、泣いていた。
フェイは、ギュンターの背中を見つめていた。駆けこんできたとき、風に乗って届いた匂い。
果物の皮みたいな、甘くて、すっとする匂い。
中庭で、カップから立ちのぼっていた湯気の匂いだった。夜の演習場で、影から流れてきた匂いだった。
「……ギュンターさん」
ギュンターの肩が、こわばった。
「あの夜、魔石のところにいたの、ギュンターさんですよね」
演習場が、しんとなった。
東の端で、会長が、砕けた魔石のかけらを拾い上げていた。かけらの裏に、どろりとした液がこびりついている。フェイが毎晩、ポケットに入れて持ち歩いていた瓶と、同じ匂いがした。
「ち、違うわ」
クラリッサが、フェイの袖をつかんだ。
「ギュンターは、そんなことしない。生まれたときから、ずっと私のそばにいてくれたのよ。紅茶も、髪も、着替えも、全部ギュンターが……」
ギュンターは、何も言わなかった。
ただ、膝をついたまま、地面に両手をついた。白い頭が、ゆっくりと下がっていく。額が、土についた。
「……お嬢様を、勝たせたかったのです」
かすれた声だった。
「去年、決勝で敗れたお嬢様は、夜通し泣いておられました。グラウベルクの名に恥じぬよう、誰よりも励んでこられたのに。……ヴァイスベルクの娘さえいなければ、と」
「旦那様は、何もご存じありません。このギュンターが、1人で考え、1人でやったことです。お嬢様を、お守りするはずが……この手で、お嬢様に……」
最後は、声にならなかった。
クラリッサの指が、フェイの袖から離れた。
クラリッサは、地面に額をつけた執事を見下ろしていた。唇が開いて、閉じて、また開く。何も、出てこなかった。
ぽたり、と、膝の上に涙が落ちた。
フェイは、黙って、クラリッサの隣に座った。
何を言えばいいのか分からなかった。だから、何も言わなかった。ただ、肩が触れるくらいのところに座っていた。
クラリッサは、しばらくそのまま動かなかった。
やがて、その肩が、そっとフェイの方へ傾いてきた。




