第56話 変態!
影は、演習場の裏手の林へ飛びこんだ。
枝が顔を打つ。足もとの落ち葉が、がさがさと鳴る。影の足音は、少しずつ遠くなっていった。夜の林で、これだけ速く走れる人は、山でも見たことが無い。
それでもフェイの方が速かった。
木々のあいだに、黒い背中がちらりと見える。あと10歩。5歩。フェイは、地面を強く蹴った。
林を抜けた先は、小さな広場だった。
月が、雲から顔を出した。
白い光の中に、人が立っていた。影ではなかった。寝間着の上に上着をはおって、両手を前に突き出している。手のひらの先に、白い霜の花が咲きかけていた。
巻いた髪が、月明かりで灰色に光っていた。
「え」
「え?」
止まれなかった。
フェイは、そのままクラリッサにぶつかった。2人一緒に、草の上に転がる。目を開けると、すぐ下に、琥珀色の目があった。
フェイの両手は、クラリッサの顔の両脇の地面についていた。膝は、寝間着の裾を踏んでいた。
クラリッサの吐く息が、白かった。夜の練習で、ずっと氷の魔法を撃っていたのだろう。頬が冷たそうに赤い。
「ご、ごめんなさい、人を追いかけてて――」
フェイは、慌てて体を起こした。膝立ちになって、両手を宙に浮かせる。
クラリッサの目が、フェイの顔を見て、それから下へ動いた。自分の上に乗っている男。夜。寝間着。誰もいない広場。
それに、気配が無かった。目に魔力を込めていたのに、ぶつかる直前まで、何も感じなかった。
「……変態」
「へ?」
「変態!」
寝転んだままのクラリッサのつま先が、まっすぐ上へ蹴り上がった。
熊の爪も、紅蓮爆砕も、見えない斬撃も、フェイの体には効かなかった。
それなのに。
「――っ!!」
声が出なかった。
フェイは、横に転がり落ちた。体を丸めて、草の上をのたうつ。腹の底から、重たくて、ぐらぐらする痛みが這い上がってくる。目の前に、白い火花がいくつも散った。
「お、おれ、なにも、して、ません……」
「こんな夜中に、気配を消して近づいてきて、何もしてないですって!?」
クラリッサは立ち上がって、寝間着の裾をばっと押さえた。
「昼間の魔石も、あなたの仕業ね!? 自分で割って、自分で助けて、恩を売ろうとしたんでしょう!」
「ち、ちが……あいつが、逃げ……」
フェイは、這ったまま林の方を指さした。
林は、静まりかえっていた。足音は、もうどこにも聞こえなかった。
「信じないわ。……変態の言うことなんか」
クラリッサは、肩を怒らせて、寮の方へ歩いていった。
フェイは、草の上で丸まったまま、月を見上げた。手の中には、まだ、瓶が1つ握られていた。




