第44話 聖女と護衛
東の森の空気は、しっとりと冷たかった。
その奥を、小柄な1年生の少女が、おそるおそる歩いていた。
シエル。フェイたちとは別のクラスで、学校では「聖女様」と呼ばれている。治癒魔法が使えるからだ。
苔むした倒木をまたごうとして、シエルはスカートの裾を枝に引っかけた。
「あ……」
「う、動かないでください! い、今、外しますから……!」
前を歩いていた背の高い少女が、慌てて駆け戻ってきた。2年生のブリジット・アイゼンガルト。辺境伯家の令嬢で、腰に細身の剣を下げている。
ブリジットは震える指で裾から枝を外すと、ほっと息をついた。それから自分の手を見て、ひっ、と声を上げた。
「す、すみません、勝手に裾を……! ご、ご無礼を……!」
「いいえ。ありがとうございます、ブリジット様」
シエルが笑いかけると、ブリジットはますます赤くなって、ぺこぺこと頭を下げた。
この人は、シエルの護衛だった。聖女に万が一のことがあってはいけないと、大人たちはこの実習にも、武の家の娘であるブリジットを付けてくれた。
けれど、森に入ってから、ブリジットは木の根につまずき、鳥の羽音に飛び上がり、シエルよりずっと怯えていた。
(わたくしが、しっかりしなくては)
シエルは、胸の前でそっと手を握った。戦うことはできないけれど、ブリジットが転んで膝をすりむいたら、すぐに治してあげられる。
ほかの組とは、いつのまにかはぐれていた。薬草を探して、奥へ入りすぎたのかもしれない。
茂みの向こうで、何かが動いた。
葉の隙間から覗くと、木漏れ日の届かない窪地に、男が1人しゃがんでいた。フードを目深にかぶり、膝の上に広げた紙に、何かを書きつけている。
「先生、でしょうか?」
「い、いえ……先生では、ないと……」
ブリジットの声が、かすれた。
男が、顔を上げた。
目が合った、とシエルが思ったときには、男の手がこちらへ振られていた。
ひゅっ、と風が鳴った。
シエルの横の木の幹が、斜めにずれて、落ちた。
何も見えなかった。矢も、炎も、何も。ただ風の音がして、太い木が切れていた。
「――シエル様、わたしの後ろへ」
落ち着いた声がした。
シエルの前に、ブリジットが立っていた。いつ剣を抜いたのか、分からなかった。細身の刃が、木漏れ日を受けて光っている。
さっき裾を外してくれた指の震えは、どこにも無かった。
ひゅっ。ひゅっ、ひゅっ。
風の音が、続けざまに鳴った。ブリジットの剣が閃くたびに、キン、と硬い音がして、シエルのすぐ手前の地面がえぐれて弾ける。
見えない何かを、斬っている。
「見えなくても、音で分かる!」
ブリジットの声から、つかえが消えていた。
けれど、前へは出られなかった。風の音は、全部シエルを狙っていた。ブリジットが一歩踏み出せば、その一歩ぶん、シエルの前が空く。
「守られている方ばかり狙うとは……卑怯な!」
「ブリジット様……!」
声が震えた。治癒魔法では、飛んでくるものを1つも止められない。
ブリジットの頬に、赤い線が走った。




