第42話 おはよう、リア
次の日の朝。
フェイは教室の席で、鼻の頭をさすっていた。熊にも紅蓮爆砕にもびくともしなかったのだから、枕で痛いはずがない。それなのに、ゆうべの2つの枕の感触が、まだ顔の真ん中に残っている気がした。
ソフィアとメイベルは、いつもの席で教科書を広げていた。窓から差しこむ朝の光の中で、埃がきらきら浮いている。いつもと同じ朝。ただ、2人とも今朝はまだ一度も、フェイと目を合わせてくれない。
「あ、あのさ、ソフィア」
「なにかしら」
「……なんでもない」
ソフィアは、教科書のページをめくって、またもとに戻した。さっきから、それを3回くり返していた。
教室の扉が開いたのは、そのときだった。
おしゃべりが、すっと止んだ。
夜の色をした長い髪に、つり上がった紫の瞳。このクラスの生徒ではない、ヴィクトリアだった。机のあいだを真っすぐ抜けてきて、フェイの前で足を止める。
「おはよ、フェイ」
屋上で扉の向こうへ駆けこんでいった真っ赤な顔は、どこにも無かった。少しだけ首をかしげて、なんでもないことのように笑っている。
ソフィアの手の中で、教科書の端がくしゃりと鳴った。メイベルが、帳面を胸に抱きしめた。2人の顔に、むむむ、と書いてあった。
フェイは、それに気づかなかった。リアと呼んでと言われたのだから、リアと呼ぶ。
「おはよう、リア」
教室が、凍った。
「……今、リアって言った?」
「ノクターン家の、ヴィクトリア様を?」
「あの魔力無しが、愛称で!?」
ひそひそ声が、教室の隅まで広がっていく。後ろの席で、誰かが椅子ごとひっくり返った。
「また後でね」
ヴィクトリアは満足そうに目を細めて、くるりと踵を返した。扉の前で一度だけ振り返り、ソフィアとメイベルに向かって、ふふん、と笑ってみせる。
扉が閉まった瞬間、フェイの両袖が、左右から同時につかまれた。
「フェイ!」
「フェイ様!」
「な、なに? おれ、挨拶しただけだよ?」
「挨拶の中身が問題なの!」
「ゆうべ、あれだけお話ししましたよね!?」
ソフィアが、ぐいっと顔を近づけてきた。
「リアだけ、ずるいわ。私のことも……愛称で呼んで。ソフィ、って」
言い終わる前に、ソフィアの耳が赤くなった。
「わたくしもです! メイ、と呼んでください!」
いつもならソフィアの一歩うしろに控えているメイベルが、今朝は半歩も引かなかった。
「で、でも、2人とももう呼び捨てだし……」
「呼び捨てと愛称は、違うの!」
「今、ここで、です!」
2人とも、目がまったく笑っていなかった。フェイは、ごくりと唾を飲みこんだ。
「……ソフィ」
ソフィアの肩が、ぴくりと跳ねた。
「……メイ」
メイベルが、両手で口を押さえた。
2人は袖を放すと、そろって前を向いてしまった。ソフィアは髪の先を指にくるくる巻きつけていて、メイベルは帳面に顔を半分うずめて、「メイ……」と小さく繰り返している。
さっきまで、あんなに怒っていたのに。フェイが首をかしげて顔を上げると、教室じゅうの目が、こちらを向いていた。




