第40話 リアって呼んで
屋上の風は、あの日と同じくらい強かった。
ヴィクトリア・ノクターンは、手すりのそばで、乱れる髪を押さえていた。王都の屋根の向こうに、小さく山の稜線が見える。あの子の家がある山。
扉が開いて、フェイが顔を出した。
「お待たせ! ごめん、おかわりしてたら遅くなった」
「何皿食べたの?」
「6皿!」
ヴィクトリアは、吹き出した。
笑えた、と思った。1週間、どうやって笑っていたのか思い出せなかったのに。
「呼び出しておいて、なんだけれど」
ヴィクトリアは、フェイに向きなおった。背筋をのばして、スカートの裾をつまむ。
「ありがとう、フェイさん。あなたのおかげで、ノクターン家は救われたわ。私も」
深く、頭を下げた。
アルベルトに下げたのと同じ形。けれど、まるで違うものだった。あちらは、終わらせるための一礼。こちらは、自分の胸の中にあるものを、一滴もこぼさずに渡したくて下げる頭だった。
「おれ、たいしたことしてないよ。登って、運んだだけ」
「3階の壁と、塔の5階を、ね」
顔を上げて、ヴィクトリアは笑った。
今度は、口もとだけではなかった。目も、頬も、肩も、ぜんぶ笑っていた。屋上で初めて話した日の、何かを下ろしたような笑顔とも違う。女子寮の部屋で無理に作った、疲れきった笑顔とも違う。
自分でも、どんな顔をしているのか分かった。
頬が熱い。胸の奥が、うるさい。
水をかぶったあの廊下で、背中を向けて立っていた少年。冷たいはずなのに、「冷たっ」と言っただけで、犬みたいに首を振っていた。
あのときから、もう、だめだったのかもしれない。
「ねえ、フェイさん」
「なに?」
「家族はね、私のことを、リアって呼ぶの」
声が、少しだけ震えた。
「あなたも、そう呼んで」
フェイは、きょとんとした。それから、なんでもないことのように、にこっと笑った。
「……リア?」
その声で呼ばれた瞬間、ヴィクトリアの中で、何かがほどけた。
一歩、踏み出す。
「かっこよかったよ、フェイ」
つま先立ちになって、フェイの唇に、自分の唇を重ねた。
風の音が、遠くなった。
ほんの一瞬だった。けれど、ずいぶん長かった気もした。
離れると、フェイが固まっていた。目をまんまるにして、口を半開きにして、石像みたいに動かない。決闘の日、炎の中から出てきたときよりも、ずっと間の抜けた顔だった。
ヴィクトリアの顔が、一気に燃え上がった。
「そ、それだけ! それだけだから!」
くるりと背を向けて、屋上の扉へ駆けこむ。
扉を閉めて、背中を預けた。胸を両手で押さえる。心臓が、扉を叩き返しそうなほど鳴っていた。
――ああ、もう。
ヴィクトリアは、その場にしゃがみこんで、熱い顔を膝にうずめた。
好きになってしまった。




