第23話 バケツの水
登校した朝、ヴィクトリア・ノクターンの後ろには、誰もいなかった。
いつも門の前で待っていたマルタたちの姿が無い。教室に入ると、3人とも窓際に固まっていて、ヴィクトリアと目が合うと、そろって下を向いた。
それで、全部分かった。
ヴィクトリアは何も言わずに、自分の席に着いた。背筋をのばして、教本を開く。字は、ひとつも頭に入ってこなかった。
屋敷は、王都の衛兵に囲まれている。ノクターン公爵は屋敷から出ることを禁じられ、家の者は出入りのたびに改められる。王家の目と呼ばれた家が、今は自分の目を塞がれていた。
休めば、認めたことになる。だから来た。
それだけが、ヴィクトリアに残っている意地だった。
最初の日は、陰口だけだった。
2日目に、教本が無くなった。3日目に、机の中に泥が詰めてあった。
4日目の昼、手洗い場の前で、女子生徒が5人、ヴィクトリアを囲んだ。男爵家と子爵家の娘たち。ついこの間まで、廊下ですれ違うたびに膝を折って挨拶してきた顔ぶれだった。
「ちょっと、お話があるんですけど」
腕をつかまれ、奥へ引きずりこまれる。石の床が、靴の下で冷たかった。
「王女様を狙ったんですってね」
「違うわ」
「自白したんでしょう? あなたの家の命令だって」
「それは」
言い終わる前に、頭の上から水が落ちてきた。
バケツ1杯分の、冷たい水。髪が顔に張りつき、制服が肌に吸いついた。雑巾を絞ったあとの、饐えた匂いがした。
笑い声が、石の壁に響いた。
ヴィクトリアは、顔を上げなかった。泣き顔だけは、絶対に見せたくなかった。
「ヴィクトリア!」
入り口で、声がした。ソフィアだった。後ろにメイベルもいる。女子生徒たちは、王女の顔を見るなり、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ごめんなさい、遅くなって」
ソフィアが自分の上着を脱いで、ヴィクトリアの肩にかけた。メイベルは、手巾で髪を拭いてくれた。
「……どうして、あなたたちが」
「どうしてって、ヴィクトリアがそんなことをするはずないもの」
ソフィアは、当たり前のように言った。
それからの数日、2人はできるかぎりそばにいてくれた。けれど、クラスが違う。授業も違う。目を離した隙に、水は何度でも降ってきた。
5日目も。6日目も。
7日目の朝、鏡に映った自分の顔を見て、ヴィクトリアは思った。
まだ、泣いてはいない。
ただ、もう、どうやって笑っていたのか、思い出せなかった。




