第2話 谷の狩猟会
鹿の足跡は、沢を越えて東の尾根へ続いていた。
フェイは地面に膝をつき、指先で土をなぞった。蹄の跡がまだ湿っている。近い。
音を立てないように斜面を登り、尾根でいちばん背の高い樅の木に手をかけた。幹を3回蹴っただけで、もう枝の上だ。樹脂の匂いが鼻を刺す。
見下ろした谷に、鹿はいなかった。
かわりに、人がいた。
「……え?」
思わず声が漏れた。谷の向こうの開けた草地に、20人、いや30人はいる。馬が何頭もつながれ、布の天幕が張られ、旗が風に揺れていた。金の糸で縫った服が、日の光をはじいてきらきら光る。
この山に、おじいちゃんとおばあちゃん以外の人間がいるのを、フェイは初めて見た。
「なんだろう、あれ。お祭りかな」
風に乗って、肉を焼く匂いと馬の汗の匂いが届いた。腹が鳴りそうになって、フェイは慌てて腹を押さえた。
弓を持った男たちが、笑いながら森を指さしている。どうやら狩りらしい。鹿を獲りに来たのなら、フェイと同じだ。
草地の端には、女の子が2人並んでいた。1人は長い髪を背に垂らし、白い服を着ている。もう1人は黒っぽい服で、その子の隣にぴたりとついていた。2人で何か話しては、くすくす笑っている。
ずいぶん楽しそうだな、とフェイは思った。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
天幕の裏手。人の輪から離れた茂みに、灰色の外套を着た男が2人いる。足もとに、布をかぶせた大きな箱があった。
男の1人が布を引きはがした。
檻だった。中に、熊がいる。それも、フェイが山で見てきたどの熊よりも大きい。
もう1人の男が、檻の格子のすきまから熊の額へ手をかざした。指先がぼうっと赤く光る。
熊は吠えなかった。
ただ、目の色が変わった。黒く濡れていた目が、濁った赤に塗りつぶされていく。口の端から泡がこぼれ、太い爪が檻の床をがりがりと削りはじめた。
フェイは枝を握る手に力をこめた。めきり、と枝が鳴った。
男たちは檻の扉を開けると、振り返りもせずに森の奥へ消えた。
熊が出てくる。
その鼻先が、ゆっくりと草地のほうを向いた。笑い声のするほうへ。
山の熊は、人の匂いがすれば逃げる。おじいちゃんにそう教わったし、フェイもずっとそうだと思っていた。人のいるほうへわざわざ鼻を向ける熊なんて、見たことがない。
白い服の女の子が、こちらに背を向けたまま、隣の子に何か耳打ちしている。
熊が走り出した。




