第1話 山の朝
夜明け前の山は、吐く息が白い。
フェイは家の前の平たい岩に両手をつき、腕立て伏せを始めた。
「198、199……200!」
そのまま仰向けに転がって腹筋を200回。跳ね起きて、スクワットを200回。物心ついた頃から、毎朝これをやっている。終わる頃には前髪が汗で額に張りついていた。
休まずに森へ駆け出す。
苔の生えた倒木を跳び越え、沢の石を踏んで渡る。朝露に濡れた枝が頬を打った。冷たくて気持ちいい。山をぐるりと1周して家の裏に戻るまで、ちょうど1時間。足は一度も止めない。
「ただいま!」
「おかえり。薪を割っといておくれ」
台所の窓から、ハンナが顔を出した。78になるのに、声は山のどの鳥よりもよく通る。
「はーい」
斧を振り下ろすたびに、丸太がぱかんと2つに割れる。割るというより、斧が当たったところから丸太のほうが勝手に開いていく。フェイにとっては、それが普通だった。
割った薪を抱えて台所へ入ると、鍋から湯気が上がっていた。今朝の当番はフェイだ。干し肉を刻み、昨日摘んだ山菜と一緒に鍋へ落とす。塩をひとつまみ。青い匂いと肉の脂の匂いが混ざって、腹が鳴った。
「味見をしてもいいかね」
奥の部屋から、バルタザールが出てきた。白い髭が胸まで伸びている。80になるが、背筋はまっすぐだ。
「まだ煮えてないよ、おじいちゃん」
「煮えておらんでも、腹は減る」
「それ、昨日も言ってた」
3人で朝食をとったあとは洗濯だ。沢で3人分の服をもみ洗いし、家の前に張った縄に干していく。水は指が痛くなるほど冷たいが、フェイは鼻歌まじりだった。
濡れた服の詰まった籠を片手で提げて戻ると、ハンナが縄の前で待っていた。広げたフェイのシャツを見て、眉を寄せる。
「また袖が短くなったねえ。去年縫ったばかりなのに」
「おれ、まだ伸びてる?」
「伸びてるよ。上にも、横にも」
ハンナはシャツの肩をぱんぱんと叩いて、皺を伸ばした。
「冬が来る前に、もう1枚縫わなきゃね」
「フェイ」
最後の1枚を縄にかけたところで、バルタザールが呼んだ。
「今日は鹿を1頭獲ってきておくれ。干し肉が切れる」
「わかった!」
フェイは弓も槍も持たず、素手のまま森へ駆け出した。
窓からハンナの声が追いかけてくる。
「暗くなる前に帰るんだよ!」
「はーい!」
返事はもう、木々の向こうから聞こえた。
その日、山に入っていたのは、鹿だけではなかった。




