第121話 春の屋敷
伯爵家の屋敷の朝は、腕立て伏せから始まる。
「198、199……200!」
中庭の石畳に、汗が落ちて、黒い点になった。春の朝の空気は、まだ少し冷たい。
去年の春、フェイは、山を下りて、王都の魔法学校に入った。魔力が0だと、学園中に笑われた。
秋の終わりには、伯爵になっていた。
魔導国との戦いで、大魔法を2つ、拳で打ち破った。ヴァルモント家の裏切りを止めて、敵の総司令官を捕らえた。その結果、領地と、8人の婚約者を得た。
自分でも、まだ、どの順番でそうなったのか、よく分からない。
婚約が決まった冬に、8人とも、この屋敷へ越してきた。もとはヴァルモント家の屋敷で、10人が住んでも、まだ、扉を開けたことのない部屋がいくつもある。
中庭の反対側で、風を切る音がしていた。
「おはよう、ジル」
剣が、空中で止まった。
「お、おはよう、ございます。フェ……フェ、フェ……」
ジルの顔が、首まで、みるみる赤くなっていった。
婚約が決まった日に、みんなで、お互いを名前で呼ぶことにした。フェイは、次の朝から、そうした。すぐに慣れた者もいれば、冬が終わっても、まだ慣れない者もいる。ジルは、まだ、最後まで言えたためしがない。
「……フェイ、さん」
「さん、ついてる」
「つ、ついて、ません! ……あ、あと、200回、振ってから、行きます!」
ジルは、太い三つ編みを背中で揺らして、さっきより速く剣を振りはじめた。この春から3年生だ。剣を振る数は、去年の倍になっていた。
花壇のそばで、シエルが、両手を組んで、朝のお祈りをしていた。終わるのを待ってから、声をかける。
「おはよう、シエル」
「おはようございます、フェイさ……フェイ。……今日は、パンの焼ける匂いが、いつもより香ばしいですね」
フェイは、台所の窓を見た。煙が、細く上っていた。
台所では、メイベルが、焼きあがったパンを籠に移していた。その横で、ソフィアが、黒くなった1枚を、背中に隠した。
「おはよう、メイ。ソフィ」
「おはよう、フェイ。……何も見てないわよね」
「ソフィア様が焦がされたのは、今朝で3回目です」
「メイ!」
王女が、伯爵家の台所で、パンを焼いている。最初の朝は、料理番が腰を抜かしかけた。今では、誰も驚かない。
食堂へ行くと、長い机の端で、リアが、手紙の束を広げていた。王都じゅうから、毎朝、何通も届く。
「おはよう、リア」
「おはよう。……ねえ、どこかの侯爵家の三男が、また婚約を断られたそうよ。今年で4回目」
「4回も! すごいね!」
「すごくはないのよ」
向かいの席では、ノエルが、紅茶を片手に、学生の答案に赤いペンを入れていた。
「おはよう、ノエル」
「お、おはよう、フェイ」
ノエルは、赤いペンを持ったまま、顔を上げた。眼鏡の奥の目が、少しだけ泳いだ。
「……学園では、先生、でいいからな。みんなの前で名前を呼ばれると、その、困る」
「うん!」
「それと、君の分の宿題が、まだ出ていないんだが」
「ごめんなさい! 忘れてた!」
「じゃあ、分からないところだけ、あとで一緒にやろうか」
ノエルは、答案の束を横へずらして、隣の椅子の前を、1人分空けた。
そこへ、縦に巻いた灰色の髪が、勢いよく飛びこんできた。
「お、遅れてないわよね!? 髪が、どうしても、右だけ、うまく巻けなくて」
「おはよう、クララ。遅れてないよ」
「そ、そう。……おはよう」
クララは、ぷいと横を向いた。名前を呼ばれるたびに、毎朝、こうなる。
クララは、3年生になって、魔法の授業のほかに、グラウベルク家の仕事も習いはじめた。帰りが遅い日でも、朝ご飯にだけは、必ず間に合わせてくる。
「フェイ兄様、オリヴィエお姉様がまだです」
リリィが、椅子の上で、階段のほうを振り返った。鳶色の長い髪を、両耳の上から編んで、後ろで留めている。この屋敷にもとから住んでいた、ただ1人だった。
そのとき、階段の上から、足音が下りてきた。
「やあ! おはよう、諸君!」
白いリボンで髪を低く束ねた人が、踊り場で、両手を大きく広げていた。
学園の制服ではなかった。濃い青の上着に、銀の飾り紐。胸で、杖と剣を重ねた紋章が光っていた。
「会長! それ、騎士団の服?」
「そうとも! 今日から正式に、王国魔法騎士団の騎士さ。どうだい」
会長は、踊り場で、くるりと1回まわってみせた。上着の裾が、ふわりと広がった。
「かっこいい!」
「そうだろう、そうだろう。……ところで、フェイ」
会長は、まわるのをやめて、こほん、と咳払いをした。
「私は、この冬に、学園を卒業した。つまり、もう、生徒会長ではない」
「……あ」
「それに、私は、君の婚約者だ。私は、とっくに君をフェイと呼んでいる。君だけが、いつまでも私を会長と呼んでいるじゃないか」
フェイは、少し考えた。
「おはよう、オリヴィエ」
オリヴィエは、何か言いかけて、口を閉じた。
それから、踊り場の窓のほうを向いた。窓枠に手をついて、こほん、ともう1回、咳払いをした。耳が、赤くなっていた。
食堂じゅうが、パンをちぎる手を止めて、それを見ていた。
「……う、うん。悪くない。悪くないね」
そのとき、門のほうから、蹄の音が近づいてきた。
王宮の紋をつけた馬が、門の前で止まった。使いの者は、玄関に出たフェイに、深く頭を下げた。
「伯爵閣下。陛下がお呼びでございます。……それから、ヴァイスベルク卿もご一緒に、と」
階段の上で、オリヴィエが振り返った。耳は、まだ赤かった。けれど、顔は、もう笑っていなかった。




