↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
121/216

第121話 春の屋敷

 伯爵家の屋敷の朝は、腕立て伏せから始まる。


「198、199……200!」


 中庭の石畳に、汗が落ちて、黒い点になった。春の朝の空気は、まだ少し冷たい。


 去年の春、フェイは、山を下りて、王都の魔法学校に入った。魔力が0だと、学園中に笑われた。


 秋の終わりには、伯爵になっていた。


 魔導国との戦いで、大魔法を2つ、拳で打ち破った。ヴァルモント家の裏切りを止めて、敵の総司令官を捕らえた。その結果、領地と、8人の婚約者を得た。


 自分でも、まだ、どの順番でそうなったのか、よく分からない。


 婚約が決まった冬に、8人とも、この屋敷へ越してきた。もとはヴァルモント家の屋敷で、10人が住んでも、まだ、扉を開けたことのない部屋がいくつもある。


 中庭の反対側で、風を切る音がしていた。


「おはよう、ジル」


 剣が、空中で止まった。


「お、おはよう、ございます。フェ……フェ、フェ……」


 ジルの顔が、首まで、みるみる赤くなっていった。


 婚約が決まった日に、みんなで、お互いを名前で呼ぶことにした。フェイは、次の朝から、そうした。すぐに慣れた者もいれば、冬が終わっても、まだ慣れない者もいる。ジルは、まだ、最後まで言えたためしがない。


「……フェイ、さん」

「さん、ついてる」

「つ、ついて、ません! ……あ、あと、200回、振ってから、行きます!」


 ジルは、太い三つ編みを背中で揺らして、さっきより速く剣を振りはじめた。この春から3年生だ。剣を振る数は、去年の倍になっていた。


 花壇のそばで、シエルが、両手を組んで、朝のお祈りをしていた。終わるのを待ってから、声をかける。


「おはよう、シエル」

「おはようございます、フェイさ……フェイ。……今日は、パンの焼ける匂いが、いつもより香ばしいですね」


 フェイは、台所の窓を見た。煙が、細く上っていた。


 台所では、メイベルが、焼きあがったパンを籠に移していた。その横で、ソフィアが、黒くなった1枚を、背中に隠した。


「おはよう、メイ。ソフィ」

「おはよう、フェイ。……何も見てないわよね」

「ソフィア様が焦がされたのは、今朝で3回目です」

「メイ!」


 王女が、伯爵家の台所で、パンを焼いている。最初の朝は、料理番が腰を抜かしかけた。今では、誰も驚かない。


 食堂へ行くと、長い机の端で、リアが、手紙の束を広げていた。王都じゅうから、毎朝、何通も届く。


「おはよう、リア」

「おはよう。……ねえ、どこかの侯爵家の三男が、また婚約を断られたそうよ。今年で4回目」

「4回も! すごいね!」

「すごくはないのよ」


 向かいの席では、ノエルが、紅茶を片手に、学生の答案に赤いペンを入れていた。


「おはよう、ノエル」

「お、おはよう、フェイ」


 ノエルは、赤いペンを持ったまま、顔を上げた。眼鏡の奥の目が、少しだけ泳いだ。


「……学園では、先生、でいいからな。みんなの前で名前を呼ばれると、その、困る」

「うん!」

「それと、君の分の宿題が、まだ出ていないんだが」

「ごめんなさい! 忘れてた!」

「じゃあ、分からないところだけ、あとで一緒にやろうか」


 ノエルは、答案の束を横へずらして、隣の椅子の前を、1人分空けた。


 そこへ、縦に巻いた灰色の髪が、勢いよく飛びこんできた。


「お、遅れてないわよね!? 髪が、どうしても、右だけ、うまく巻けなくて」

「おはよう、クララ。遅れてないよ」

「そ、そう。……おはよう」


 クララは、ぷいと横を向いた。名前を呼ばれるたびに、毎朝、こうなる。


 クララは、3年生になって、魔法の授業のほかに、グラウベルク家の仕事も習いはじめた。帰りが遅い日でも、朝ご飯にだけは、必ず間に合わせてくる。


「フェイ兄様、オリヴィエお姉様がまだです」


 リリィが、椅子の上で、階段のほうを振り返った。鳶色の長い髪を、両耳の上から編んで、後ろで留めている。この屋敷にもとから住んでいた、ただ1人だった。


 そのとき、階段の上から、足音が下りてきた。


「やあ! おはよう、諸君!」


 白いリボンで髪を低く束ねた人が、踊り場で、両手を大きく広げていた。


 学園の制服ではなかった。濃い青の上着に、銀の飾り紐。胸で、杖と剣を重ねた紋章が光っていた。


「会長! それ、騎士団の服?」

「そうとも! 今日から正式に、王国魔法騎士団の騎士さ。どうだい」


 会長は、踊り場で、くるりと1回まわってみせた。上着の裾が、ふわりと広がった。


「かっこいい!」

「そうだろう、そうだろう。……ところで、フェイ」


 会長は、まわるのをやめて、こほん、と咳払いをした。


「私は、この冬に、学園を卒業した。つまり、もう、生徒会長ではない」

「……あ」

「それに、私は、君の婚約者だ。私は、とっくに君をフェイと呼んでいる。君だけが、いつまでも私を会長と呼んでいるじゃないか」


 フェイは、少し考えた。


「おはよう、オリヴィエ」


 オリヴィエは、何か言いかけて、口を閉じた。


 それから、踊り場の窓のほうを向いた。窓枠に手をついて、こほん、ともう1回、咳払いをした。耳が、赤くなっていた。


 食堂じゅうが、パンをちぎる手を止めて、それを見ていた。


「……う、うん。悪くない。悪くないね」


 そのとき、門のほうから、蹄の音が近づいてきた。


 王宮の紋をつけた馬が、門の前で止まった。使いの者は、玄関に出たフェイに、深く頭を下げた。


「伯爵閣下。陛下がお呼びでございます。……それから、ヴァイスベルク卿もご一緒に、と」


 階段の上で、オリヴィエが振り返った。耳は、まだ赤かった。けれど、顔は、もう笑っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。