第117話 付き添い
ノクターン家の庭の芝は、夏に来たときより、少し色が深くなっていた。
リアは、小さな旗の立った穴の前で、細い棒を構えていた。夏休みに教わった、ゴルフという遊びだった。こつん、と白い球を打つ。球は、穴の縁をくるりと回って、外へ転がり出た。
「……今の、見なかったことにして」
「入りそうだったのに」
「入らなかったのよ」
リアは、棒を芝に突いて、フェイのほうを向いた。
「来ると思ってたわ。ソフィアとメイベルのところへは、もう行ったんでしょう」
「なんで知ってるの!?」
「王家の目よ。何回言わせるの」
リアは、ふっと笑った。それから、小指を1本、立ててみせた。謁見の間で、こっそり見せたのと同じ形だった。
「約束、覚えてる?」
「うん」
フェイは、自分の小指を立てて、リアの小指にからめた。
「好きになった人を幸せにするために、できることをする。……伯爵になったよ、リア」
「ええ。見てたわ。額を床にぶつけるところまで」
「あれは、忘れて」
リアが、くすくすと笑った。からめた小指が、笑うたびに揺れた。
「リアにも、ずっといてほしい」
笑い声が、止まった。
「最初に好きって言ってくれたのは、リアだから。……それに、リアがいなかったら、おれ、伯爵になれるなんて知らないままだった」
リアは、からめた小指を、じっと見ていた。
「……そういうのは、もっと格好つけて言うものよ」
「だめ?」
「だめじゃないわ」
リアは、小指をほどいた。かわりに、フェイの手を、手のひらごと握った。
「答えは、ずっと前に言ったもの。好きよ、フェイ。……だから、いてあげる。いやだって言われても」
言ってから、リアの顔が、耳の先まで、みるみる赤くなっていった。日傘を開いて、顔を隠す。
「……今の、見なかったことにして」
「さっきのゴルフと一緒に?」
「一緒によ!」
学園に戻ったのは、日が暮れてからだった。
教員棟の、いちばん奥の部屋に、まだ明かりがついていた。扉を叩くと、少し間があって、低い声がした。
「入れ」
ノエル先生は、机の上の紙の山に、赤いインクで印をつけていた。眼鏡を外して、目頭を押さえる。
「こんな時間に、なんだ。伯爵様」
「先生も、伯爵様って言うんですか?」
「言わせているのは、お前だろう」
先生は、ペンを置いて、少しだけ笑った。
「前線では、本当に、よく頑張ったな。……ほら、座るといい」
フェイは、机の前の椅子に座った。インクと、冷めた紅茶の匂いがした。
「先生」
「なんだ」
「先生にも、これからずっと、そばにいてほしいです」
先生の手が、紅茶のカップに伸びかけて、止まった。
「……私は、お前の担任だぞ」
「はい」
「教師だ。お前より、ずっと年上だ。それに……」
先生は、言葉を探すように、眼鏡を指先でくるくると回した。いつもなら、すぐに答えが出てくる人なのに。
「国境の街で、夜の見張りに毎晩付き合ってくれました。屋根の上で、おまじないをくれました。川岸でも、待ってるからなって言ってくれました」
フェイは、まっすぐに先生を見た。
「先生が、いいです」
眼鏡が、机の上に置かれた。
先生は、しばらく、窓の外の暗がりを見ていた。それから、小さく、息を吐いた。
「……付き添いだからな」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、窓ガラスに映った先生の口もとは、国境の街から帰る馬車の中で見たときよりも、ずっと、ゆるんでいた。




