第116話 東の塔
城の東の塔の上は、風がよく通った。
夕焼けが、王都の屋根を、端から順に赤く染めていく。ソフィアは、胸壁に両手をついて、それを見ていた。金色の髪が、風にほどけて流れている。
「伯爵様が、こんなところに何のご用かしら」
振り返らずに、ソフィアが言った。声が、少しだけ笑っていた。
「ソフィに、話があって」
フェイは、隣に並んだ。石の胸壁は、昼の熱を残して、まだ温かかった。
何から言えばいいのか、分からなかった。
頭の中に、最初の日のことが浮かんだ。山の草地で、熊の前に膝をついていた女の子。目を閉じることもできずに、こちらを見上げていた顔。
「おれ、山を下りてから、ずっとソフィに助けてもらってた」
「……そうね。制服の着方も、ナイフとフォークの持ち方も、わたしが教えたのよ」
「うん」
フェイは、左の手首を握った。銀の鎖の下で、金の石が、ひんやりと当たった。
「前線で、毎晩、ソフィの声を聞いてた。あれがあったから、怖くなかった」
ソフィアの手が、胸壁の上で、ぎゅっと握られた。
「だから、これからもずっと、おれのそばにいてほしい」
風が、止まった気がした。
ソフィアが、ゆっくりと振り返った。夕焼けのせいなのか、顔が、真っ赤だった。
「……バカあ」
小さな声だった。
「遅すぎるわ。わたし、熊の日からずっと待ってたのに」
ソフィアは、フェイの胸に、額をぶつけるようにして寄りかかった。
「はい。……ずっと、いるわ。あなたが嫌だって言っても」
フェイは、ソフィアの背中に、そっと腕を回した。髪から、日なたの匂いがした。
塔の階段を下りると、踊り場に、メイベルが立っていた。
両手を前でそろえて、侍女の顔をしていた。ソフィアを待っていたのだろう。けれど、その目が、少しだけ赤かった。
「……おめでとうございます。ソフィア様」
ソフィアは、何も言わずに、メイベルの手を握った。それから、フェイの背中を、とん、と押して、先に階段を下りていった。
踊り場に、フェイとメイベルが残された。
「メイ」
「はい、フェイ様」
「メイにも、いてほしい」
メイベルの肩が、びくりと跳ねた。
「わ、私は、侍女です。ソフィア様のお側にお仕えする身で……伯爵様の、お相手になど」
「メイが、いい」
フェイは、メイベルの前に立った。
「王宮に泊まった夜、メイがおやすみって言ってくれたとき、かわいいってこういうことかって思った。あれからずっと、そう思ってる」
メイベルは、うつむいた。
栗色の髪が、頬にかかって、顔が見えなかった。そろえた両手の指先が、白くなるほど握りあわされている。
やがて、メイベルは、顔を上げた。泣きそうなのに、笑っていた。
「……はい。お側に、置いてください」
それから、少しだけつま先立ちになって、あの夜と同じ声で言った。
「フェイ」
様が、ついていなかった。
階段の下から、ソフィアの声と、それにかぶさる、もう1つの声が聞こえてきた。
「お母様!? いつからそこに……!」
「ねえ、わたしは!? わたしにも言ってくれないの!?」
「お母様には、お父様がいらっしゃるわ!」




