第111話 東の橋
東の橋は、谷川にかかった、古い石の橋だった。
馬車が1台、やっと渡れるほどの幅しかない。その橋の真ん中に、氷の壁が、天井まで届きそうな高さで立っていた。
壁の手前に、クララ先輩が、1人で立っていた。
グラウベルク家の兵たちは、橋の向こう側に固まっている。先輩は、橋のこちら側で、敵のほうを向いていた。兵たちを先に渡して、自分だけ残ったのだ。
氷の壁の向こうから、炎の魔法が、何度も叩きつけられていた。そのたびに、壁の表面が、じゅっと音を立てて溶ける。先輩が、溶けたところに、すぐ新しい氷を張りなおす。
張りなおすたびに、壁が、少しずつ薄くなっていた。
先輩の足もとの石畳に、白い霜が、細い線を描いている。その線が、途切れ途切れになっていた。
どん、と、いちばん大きな炎が、壁にぶつかった。
氷の壁の真ん中に、大きな穴が開いた。穴の向こうに、黒い鎧の兵たちが、槍を構えて並んでいるのが見えた。
「……来なさいよ」
先輩は、両手を前に突き出した。けれど、手のひらから出たのは、白い息のような、薄い冷気だけだった。
「グラウベルクの橋を、渡れるものなら……!」
黒い鎧が、穴から、どっと押し寄せた。
フェイは、その真ん中に、上から落ちた。
石の橋が、ずしん、と鳴った。押し寄せてきた兵たちが、足もとをすくわれて、まとめて後ろへ転がった。転がった兵が、後ろの兵にぶつかって、またその後ろへ。
フェイは、穴のあいた氷の壁の前に立って、拳を、ひとつだけ前へ突き出した。
風が、橋の上を、まっすぐに吹き抜けた。
壁の向こうに残っていた黒い鎧が、1人残らず、橋の向こうの土手まで飛んでいった。
フェイは、振り返った。
「先輩」
クララ先輩は、両手を突き出したまま、固まっていた。琥珀色の目が、まんまるになっている。
「お、遅いわよ!」
最初に出てきたのは、それだった。
「わ、私、もう少しで……べ、別に、助けなんて、要らなかったけど! あと少しくらい、持たせられたけど!」
そこまで言って、先輩の膝が、かくんと抜けた。
フェイは、地面につく前に、先輩の体を支えた。先輩の手は、氷みたいに冷たかった。
「……うそ」
フェイの腕の中で、先輩は、小さな声で言った。
「もう、氷が出なかったの」
フェイは、先輩を、そのまま両腕で抱き上げた。
「ちょ、ちょっと! な、何してるのよ!」
「先輩は立てないので、このまま戻ります」
「た、立てるわよ! 下ろしなさい! 兵たちが、見てるでしょ!」
先輩は、フェイの胸を、ぽかぽかと叩いた。力が、まるで入っていなかった。
橋の向こうで、グラウベルクの兵たちが、そろって目をそらした。
「……ギュンターには、言わないで」
「はい」
先輩は、叩くのをやめた。フェイの肩口に、額を押しつける。冷たかった手が、少しずつ温かくなっていった。
夕方、辺境伯の丘に、みんなが戻ってきた。
フェイの腕の中には、いつのまにか眠ってしまったクララ先輩が。けが人を乗せた荷車を押して、ジル先輩とシエルが。白い山の旗を立てて、会長が。
辺境伯が、荷車の前で、ジル先輩を、両腕で丸ごと抱き上げた。ジル先輩は、今度は「皆さんが、見て」とは言わなかった。
会長が、旗を兵に預けて、こちらへ歩いてきた。白いリボンは、片方だけ、少し曲がって結ばれていた。
「会えたね、フェイ君」
「はい。約束どおり」
会長は、フェイの腕の中で眠るクララ先輩を見下ろして、ふっと息をもらした。それから、指先で、先輩の頬にかかった巻き髪を、そっと払った。
「……この子が起きたら、大騒ぎだろうね」
川の向こうでは、魔導国の兵たちが、総大将を失って、ばらばらに後ろへ下がっていた。
「フェイ」
ノエル先生が、丘の上で待っていた。足もとには、すうすうと眠る公爵とレオンハルトが、縄で縛られて転がっている。
「……戻ってきたな」
「はい。戻ってきました」
先生は、ひびの入った眼鏡を押し上げた。それ以上は、何も言わなかった。
その夜、左の手首で、金の石が震えた。
『……フェイ?』
「ソフィ。勝ったよ」
石の向こうで、誰かが、息をのむ音がした。それから、小さく、鼻をすする音がした。




