第110話 西の谷
西の道は、2つの丘のあいだを抜ける、細い谷になっていた。
フェイは、丘の尾根を走った。木の枝を蹴り、岩を蹴る。下の谷から、金属のぶつかる音と、怒鳴り声が上がってくる。
谷の底に、白い山の旗が見えた。
ヴァイスベルク家の兵たちが、谷の出口のほうへ、押しこまれるように固まっていた。谷の両側の斜面から、黒い鎧が、矢と魔法を雨のように降らせている。前からも、後ろからも。
その、いちばん後ろに、会長がいた。
兵たちに背を向けて、1人で、谷の入口のほうを向いて立っている。両手を前に突き出して、光の壁を張っていた。
壁は、薄かった。
いつか、魔法大会の結界で見た光とは、比べものにならない。矢が当たるたびに、光がちらちらと揺れて、ところどころ、向こうが透けて見えた。
「下がれ! ヴァイスベルクの兵は、出口まで下がれ! ここは、私が持たせる!」
会長の声は、いつものように朗々としていた。けれど、突き出した腕が、肘のところで、細かく震えていた。
谷の入口に、長い衣の魔法使いが、10人ほど並んだ。
杖を、一斉に掲げる。頭の上に、陣が重なっていく。1枚、2枚、3枚。重なった陣の真ん中で、炎が、ぐるぐると渦を巻きはじめた。
会長が、何か唱えた。光の壁を、厚くしようとしたのだと思う。
壁の真ん中に、ひびが走った。
会長の膝が、がくんと折れた。それでも、会長は、両手を下ろさなかった。
炎の渦が、放たれた。
フェイは、尾根を蹴った。
谷へ、斜めに落ちていく。炎のほうが速い。会長の光の壁が、炎に触れて、ぱりん、と、ガラスのように砕けた。
その砕けた光の粒の中へ、フェイは、飛びこんだ。
「――せいっ!」
拳が、炎の渦の真ん中を打ち抜いた。
炎が、内側から破裂した。熱い風が、谷じゅうを駆け抜けて、斜面の黒い鎧たちを、木の葉みたいに吹き上げた。並んでいた魔法使いたちが、杖ごと、谷の外へ転がっていく。
熱が引くと、谷は、静かになっていた。
フェイは、振り返った。
会長が、膝をついたまま、こちらを見上げていた。外套が、煤で黒くなっている。長い髪を結んだ白いリボンが、片方、ほどけかけていた。
会長は、いつものように、片手を、ひらりと広げようとした。
「や、やあ。いいところに来たね、フェイく……」
声が、そこで、途切れた。
広げかけた手が、宙で止まって、それから、ゆっくり下りてきた。会長は、その手で、自分の口もとを覆った。
肩が、小さく、震えていた。
「……すまない。今のは、無しだ。少し、待ってくれたまえ」
フェイは、会長の前にしゃがんだ。
「会長、けがは無いですか?」
「無い。……無いよ。君が、来たからね」
会長は、口もとから手を下ろした。目の縁が、赤かった。それでも、笑ってみせた。いつもの、舞台の上の笑いではなかった。
「行きたまえ。まだ、どこか残っているのだろう? 君の顔に、そう書いてある」
「東の橋に、クララ先輩が」
「なら、急ぐといい。あの子は意地っ張りだから、助けを呼ばない」
会長は、谷の出口のほうへ、手を振った。
「ヴァイスベルクの兵は、私が連れて帰る。……ほら、早く」
フェイは、うなずいた。
それから、立ち上がる前に、会長の髪に手を伸ばした。ほどけかけた白いリボンの端をつまんで、きゅっと結びなおす。山で、おばあちゃんの前掛けの紐を結んだときと、同じ結び方だった。
「会長」
「な、なんだい?」
「1人で残ってたの、すごくかっこよかったです。……また、あとで。辺境伯様の丘で、会いましょう」
会長の口が、開いたまま止まった。
いつもなら、ここで、芝居がかった台詞が返ってくる。けれど、会長は、何も言わなかった。結びなおされたリボンに、そっと指で触れて、それから、うつむいた。耳の先が、赤かった。
「……ずるいな、君は」
小さな声だった。
フェイは、立ち上がった。
谷を出るとき、一度だけ振り返った。会長は、リボンに片手を添えたまま、兵たちに向かって、もう、朗々と号令をかけていた。




