第109話 南の森
南の森の小道は、荷車1台がやっと通れるほどの幅しかなかった。
ブリジットは、荷車の横を歩きながら、何度も後ろを振り返った。
荷車には、救護の天幕と、けが人が積んである。隕石が爆ぜたときの爆風に倒され、降ってくるかけらから逃げまどう者たちに踏まれた兵たちだった。10人あまり。足を折った者、肩を外した者。荷車に乗りきれない者は、修道女たちが肩を貸して歩かせている。
シエル様は、荷車の縁に手をかけて歩きながら、けが人の足に、もう片方の手をかざしていた。手のひらから、蜂蜜のような光が、細くこぼれている。
「シエル様、少し休まれては」
「森を抜けたら休みます。……この方の骨が、まだずれているので」
シエル様は、ときどき、後ろの空を振り返った。
木々の向こうに、黒い煙が、何本も立ちのぼっている。空を埋めていた、あの巨大な隕石は、もう、どこにも無かった。
「……フェイさん」
シエル様が、小さく言った。ブリジットは、黙って、剣の柄を握りなおした。
森が、深くなっていく。ふと、気づいた。
公爵は、どの道も私兵が固めておく、と言った。けれど、ここまで、剣の紋の鎧を、1人も見ていない。
足を止めた。荷車も、止まった。鳥の声が、しなかった。
「シエル様。荷車の陰へ」
言い終わる前に、木の陰から、黒い鎧が湧いて出た。
前に8人。後ろに5人。その奥で、長い衣の魔法使いが2人、杖を構えている。
見えない刃が、飛んできた。
ブリジットは、剣を抜きざまに、それを斬った。手がしびれる。風の刃は、1つではなかった。2つ、3つ、4つ。斬るたびに、刃の向きが変わる。
狙われているのは、ブリジットではなかった。荷車だった。けが人と、シエル様だった。
――野外実習の森と、同じだ。
守っているかぎり、前に出られない。前に出れば、荷車ががら空きになる。
斬る。斬る。斬る。剣の刃が、こぼれていくのが分かった。腕が重い。息が、喉の奥で焼ける。
黒い鎧の大男が、大斧を振りかぶって、正面から踏みこんできた。
受けた。
受けた瞬間、刃こぼれだらけの剣が、根もとから、高い音を立てて折れた。折れた刃が、くるくると回って、落ち葉の上に刺さった。
大男が、もう一度、斧を振り上げた。その後ろで、2人の魔法使いが、同時に杖を振った。風が、唸りを上げて渦になる。
ブリジットは、柄だけになった剣を捨てた。振り向いて、荷車の陰のシエル様に、覆いかぶさった。腕の中で、シエル様の小さな肩が震えている。
――お父様。ごめんなさい。
目を閉じた。
どん、と、地面が揺れた。
風の唸りが、消えた。斧も、降ってこなかった。かわりに、何か重いものが、森の木々にぶつかる音が、続けざまに聞こえた。どさ、どさ、どさ。それから、小枝の折れる音。
おそるおそる、目を開けた。
黒い鎧が、1人も立っていなかった。大男は、遠くの木の枝に引っかかって、白目をむいている。魔法使いの杖が、2本とも、真ん中から折れて転がっていた。
落ち葉の舞う中に、フェイさんが立っていた。白い髪が、ぼさぼさに逆立っている。息が、少しだけ上がっていた。
「先輩! シエル!」
フェイさんが、駆け寄ってきた。
そして、ブリジットとシエル様を、2人いっぺんに、両腕で抱きしめた。
土と、焦げた煙の匂いがした。抱きしめる腕が、少しだけ震えていた。
「……よかった。間に合った」
ブリジットの頭の中が、真っ白になった。
「フェ、フェ、フェイさん……っ」
「フェイさぁん……」
腕の中で、シエル様が、ぼろぼろと泣きだした。
フェイさんは、2人を抱えたまま、もう一度だけ、ぎゅっと力を込めた。それから、ぱっと離れた。
「ごめん、まだ行かなきゃ。西の道にも東の橋にも、敵がいるって」
ブリジットは、真っ赤な顔のまま、うなずいた。
「け、けが人は、わたしが、辺境伯の丘まで……」
「はい。お願いします」
フェイさんは、もう、背を向けていた。
落ち葉が、ひと吹きの風になって舞い上がった。その風がおさまったとき、森の中には、もう、フェイさんの姿は無かった。




