第108話 南、西、東
公爵の笑い声が、耳の奥で、まだ鳴っていた。
西の道は、ヴァイスベルク。東の橋は、グラウベルク。南の森には、救護の天幕と、シエルと、ジル先輩。
首の後ろに、手刀を落とした。笑い声が、途中で止まった。
すぐに走りだしたかった。けれど、足が動く前に、頭のほうが先に回った。
ここに置いていけば、この2人は逃げる。逃げたら、またどこかで、同じことをする。
――まず、この人たちを、辺境伯様のところへ。それがいちばん確かだ。どこから助けに行くかは、走りながら考える。
フェイは、公爵を担いだ。重かった。鎧の分だけ、さっきの老人より、ずっと重い。
丘を下りる途中で、草むらの中に、もう1人、鎧の男が転がっているのを見つけた。鳶色の髪。穏やかな顔が、今は泥だらけで、白目をむいている。
「あ、レオンハルトさんも」
フェイは、レオンハルトの襟首をつかんだ。両肩がふさがっているので、引きずっていくしかなかった。
川を跳び越えながら、指を折って数えた。南の森。西の道。東の橋。3つ。全部いっぺんには、行けない。
辺境伯は、川岸から少し下がった丘の上で、戻ってきた兵をまとめていた。そのそばに、ノエル先生もいた。
「辺境伯様! 白い髭の人と、ヴァルモント公爵と、レオンハルトさんです!」
3人を、地面に下ろした。辺境伯が、目をむいた。
「公爵は、向こうの本陣で寝てました。それから、退路に魔導国の兵を伏せてあるそうです。西の道にも、南の森にも、東の橋にも」
丘の上が、しんとなった。
「俺たちを川岸に並べて……逃げ道には、敵を……」
誰かが、低い声で言った。誰かが、地面に唾を吐いた。
辺境伯は、地図を広げなかった。目をつぶって、短く息を吸った。
「南の森が先だ。救護の天幕には、けが人と修道女しかおらん。守れるのは、ジル1人だ」
ジル、と呼んだ声だけが、少しかすれた。
「次に、西の道。ヴァイスベルクの兵は数がいるが、オリヴィエ嬢は、さっきの隕石を止めようとして魔力を使い果たしている。東の橋は狭いから、クラリッサ嬢の氷でしばらく持ちこたえられるだろう。あそこは最後でいい」
「南、西、東」
「そうだ。……フェイ殿、娘を」
辺境伯は、最後まで言わなかった。
「はい」
フェイの後ろで、ノエル先生が、公爵とレオンハルトの上に手をかざした。
「こいつらは、私が預かる。……眠れ、夜の底まで――昏睡封縛」
紫がかった薄い光が、2人の体を包んだ。公爵の呻き声が、すうっと静かな寝息に変わった。
その光が消える前に、フェイは、南の森へ跳んでいた。




