第101話 最前列
4日目の夕方、軍はアイゼンガルト領に着いた。
夏に来たときと、街の匂いが違った。パンを焼く匂いも、鍛冶屋の炭の匂いもしない。通りの窓は板でふさがれて、人の声がほとんど聞こえなかった。女の人や子どもたちは、もう西の村へ逃がしてあるのだという。
館の前で、辺境伯が待っていた。
「フェイ殿! 来てくれたか!」
大きな手が、フェイの背中を、ばしばしと叩いた。それから、馬を下りたブリジット先輩を、両腕で丸ごと抱き上げた。
「お、お父様! 皆さんが、見て……!」
「見せておけ。がっはっは」
笑い声は大きかったが、目の下には、濃い隈ができていた。
その夜、館の大広間で、軍議が開かれた。
机の上の地図には、国境の川が1本、太く引いてある。川の向こうに、黒い駒がびっしりと並んでいた。こちら側の駒は、その半分も無い。
「物見の知らせでは、向こうの魔法使いがゆうべから何百人も川岸に集まっている。明日の夜明けには、川を渡ってくる」
辺境伯が、太い指で、川の手前を叩いた。
「ここで食い止める。辺境伯家の兵は、中ほど。ヴァイスベルク家とグラウベルク家の兵は、その後ろだ」
「最前列は、我が軍が預かろう」
ヴァルモント公爵が、口をはさんだ。
「王都から連れてきた王国兵を、川岸いっぱいに並べる。准男爵も、そこだ。王妃殿下をお守りした武勇、いちばん前でこそ生きる」
辺境伯の眉が、ぐっと寄った。
「ヴァルモント殿の私兵は、どこに置かれる?」
「後ろで、退路を守る。王家の剣の務めだ」
公爵は、地図の上に、太い指で3本の線を引いた。西へ抜ける道。南の森。東の橋。
「退くときは、家ごとに分かれて、この3本を使え。どの道も、我が私兵が固めておく」
フェイは、リアの言葉を思い出していた。
――前に出されたら、それは罠よ。
けれど、川岸に並ぶのは、王都から一緒に歩いてきた兵たちだった。4日のあいだ、同じ鍋のスープを分けあった人たち。メイベルの林檎を、1切れずつ配った人たち。
「分かりました。おれ、前に行きます」
「フェイ殿」
「みんなが前にいるなら、おれもそこがいいので」
辺境伯は、しばらくフェイの顔を見ていた。それから、短くうなずいた。
軍議が終わると、フェイは館の屋根に上った。
川の向こうに、篝火が、星を地面にばらまいたように並んでいる。夜風が、焚き火の煙と、湿った土の匂いを運んできた。
左の手首で、金の石が、かすかに震えた。
『……フェイ?』
ソフィアの声だった。
「ソフィ。ほんとに、毎晩呼ぶんだ」
『だって、約束したもの。……着いたの?』
「うん。明日の朝、始まるって」
石の向こうが、少し静かになった。
『……明日の夜も、ちゃんと返事をしてね』
「うん」
石が、静かになった。
屋根の瓦が、こつ、と鳴った。
振り返ると、ノエル先生が、屋根の端に手をかけて上ってくるところだった。外套の裾を払って、フェイの隣に、少しだけ間をあけて座る。
東の空に、月が出ていた。
先生は、眼鏡を外した。夜風で冷えた硝子を、外套の端で拭いている。
月の光が、眼鏡の無い横顔を、白く照らしていた。長いまつげの影が、頬に落ちている。いつも眼鏡の奥で細められている目は、思っていたより、ずっと大きかった。
フェイは、息をするのを忘れていた。
「君は、戦争が怖くないのか?」
先生は、川の向こうの篝火を見たまま訊いた。
「いいえ。とても怖いです」
フェイは、膝を抱えた。
「みんなを、失うのが。……もちろん、ノエル先生のことも」
先生が、こちらを向いた。眼鏡の無い目が、少しだけ見開かれていた。
それから、ふっと、笑った。
「私も、フェイが傷つくのではないかと恐れているよ」
「おれが、ですか? こう見えて、結構頑丈なんですよ?」
「ああ、そうだな」
先生は、眼鏡を指先で回した。
「明日は、きっと君がいちばん大変な思いをするだろう。君はただの魔力無しではないから、敵からしたら厄介だ」
先生の手が、フェイの顎に、そっと触れた。指先が、夜風と同じくらい冷たかった。
「だから、そんな君におまじないだ」
唇に、柔らかいものが触れた。
月が、先生の髪の向こうに隠れて、また出てきた。
先生は、何事も無かったように眼鏡をかけなおして、立ち上がった。屋根の端で、一度だけ振り返る。
「明日は、ちゃんと帰ってくるんだぞ」
「……はい」
フェイの返事は、自分でも驚くほど、小さかった。




