第100話 封蝋
ヴァルモント公爵とレオンハルトが出陣した次の日、ヴァルモントの屋敷は、ひどく静かだった。
リリアーナ・ヴァルモントは、自分の部屋の机で、便箋を前にペンを握っていた。
――お父様。お兄様。ご無事で。
そこまで書いて、手が止まる。
14歳のリリアーナは、まだ学園に入っていない。戦のことは、何も分からない。分かるのは、公爵とレオンハルトが、王家の剣として、いちばん前に立つということだけだった。
それが誇らしくて、少しだけ怖い。
机の端には、色の褪せた号外が、丁寧に畳んで置いてあった。
――殿下の新たな許嫁に、ヴァルモント公爵家のリリアーナ嬢。
何度も読み返したので、折り目のところが、もう擦り切れかけている。
アルベルト殿下。
小さいころ、レオンハルトに連れられて城へ行くと、殿下はいつも、年下のリリアーナに歩幅を合わせてくれた。庭の噴水の縁を、手を引いて一緒に歩いてくれた。
その方の、許嫁になれた。公爵が、決めてくれた。
リリアーナは、号外をそっと撫でてから、手紙の続きを書いた。書き終えると、封をしたくなった。前線の公爵に出すのだから、家の紋の封蝋がいい。
封蝋は、公爵の書斎にある。
書斎には、入ってはいけないと言われていた。けれど、今は公爵もいない。封蝋を1つ借りるだけなら、きっと叱られない。
書斎の扉は、重かった。
中は、公爵の匂いがした。煙草と、革と、インク。大きな机の上は、きれいに片づいている。リリアーナは、引き出しを順に開けていった。
3つ目の引き出しの奥に、封蝋の箱があった。
その下に、1通の手紙が挟まっていた。
封蝋が、見たことのない色だった。深い青に、銀の星の紋。家の紋ではない。この国の、どの家の紋でもない。
見てはいけない、と思った。思ったのに、指が、もう開いていた。
――オルドラン魔導国軍、国境を越えしのち。
――王国軍の敗れしをもって、国王オスヴァルトを討つ。
リリアーナは、息をするのを忘れた。
――のち、王子アルベルトを、魔導国に従う王として立てる。妃は、ヴァルモント家の娘。国の政は、ヴァルモント公爵が、摂政として執る。
いちばん下に、公爵の名前が書いてあった。見慣れた、右上がりの、大きな字。
手紙を持つ指が、震えはじめた。
殿下が、王になる。けれど、それは、陛下が討たれたあとで。魔導国に従う王として。何も決められずに、公爵の言うとおりに頷くだけの王として。
そしてリリアーナは、その隣に座る。
――公爵が、決めてくれた。
さっき、号外を撫でながら思ったことが、喉の奥で、苦く変わった。
窓の外で、鳥が鳴いた。屋敷の廊下を、侍女が通りすぎていく足音がした。いつもと同じ、静かな朝の音だった。
リリアーナは、手紙を胸に抱きしめて、書斎の床に座りこんだ。
これを、もとの引き出しに戻せば、何も起きなかったことになる。公爵も、レオンハルトも、無事に帰ってくる。殿下の隣にも、座れる。
これを、誰かに見せれば。
どちらも選べないまま、リリアーナは、書きかけの手紙のことを思った。
ご無事で、と書いた。
その「ご無事で」が、今は、誰に向けた言葉なのか、分からなかった。




