第10話 いってきます
「197、198、199……200!」
山を下りる日の朝も、フェイは腕立て伏せから始めた。
スクワット200回。腹筋200回。それから、森を1時間。いつもの道を、いつもの速さで走った。沢の水は冷たく、苔の匂いが濃かった。この匂いを、しばらく嗅げなくなる。
家に戻ると、ハンナが竈の前に立っていた。
「ほら、最後の朝ごはんだよ」
「最後じゃないよ。帰ってくるもん」
「はいはい」
豆のスープと、黒いパンと、干した鹿肉。いつもと同じ朝ごはんを、フェイはいつもより時間をかけて食べた。
食べ終わると、ハンナが布の包みを差し出した。
「着替えと、手ぬぐいと、干し肉。あと、これ」
包みの上に、小さな木の札が載っていた。紐が通してあって、首から下げられるようになっている。表に、フェイの名前が彫ってあった。
「あんたを拾った日に、おじいさんが彫ったんだよ。持っていきな」
フェイは札を握った。木の角が、手のひらの真ん中にあたった。
「フェイ」
戸口で、バルタザールが待っていた。
「王都には、人がたくさんおる。お前を変な目で見る者も、おるじゃろう」
「変な目?」
「気にせんでええ。お前は、お前のままでおれ」
フェイには、よく分からなかった。けれど、おじいちゃんの声がいつもより少しだけ低かったから、黙ってうなずいた。
「それから、困ったときは、頼れる者に頼れ。一人で全部やろうとするでない」
「うん」
「日課は、さぼるでないぞ」
「さぼらないよ!」
バルタザールが、白い髭の下で、ほんの少しだけ笑った。
坂の下から、蹄の音が聞こえてきた。王家の紋の入った馬車が、迎えに来ていた。
フェイは包みを背負って、坂を下りかけた。それから振り返って、走って戻って、2人にいっぺんに抱きついた。
「いってきます!」
「いっておいで」
ハンナの声が、少しだけ震えていた。
馬車が動き出すと、フェイは窓から身を乗り出した。家の前に、小さな2つの影が並んでいる。
手を振った。影も、手を振り返した。
尾根を回りこむと、家は木々の向こうに隠れて見えなくなった。
フェイは、首から下げた札を握った。
山の外へ出るのは、物心ついてから、初めてだった。




