記憶の断片その一
颯介と別れたムタは、路地裏の室外機の上で一人、丸まっていた。
低く唸る室外機の振動が、微かに脳を揺らす。
「十六年前」の銀行強盗事件――後藤の部屋で見つけた計画書。
それらに触れるたび、脳の奥底にこびりついた泥が剥がれ落ちていくような感覚があった。
自分は一体、何者なんだ。
なぜ猫の分際で、人間の言葉を解し、さらには「自分の正体」などという概念にこれほどまで執着するのか。
ムタは自嘲気味に鼻を鳴らした。
だが、考えれば考えるほど、意識は深く、暗い眠りの淵へと引きずり込まれていった。
陽だまりのような温かさの中で、こちらを見つめて泣き笑いしている女性がいる。
霞がかかったように顔ははっきりしないが、その声だけは、魂に直接響くほど優しかった。
「……はい。よろしくお願いします」
彼女が差し出した左手の薬指に、銀色の輪を滑らせる。
視界に入った手は、今のような毛むくじゃらの前足ではなく、節くれだった、だが力強い「人間」の手。
これは、自分の手なのだろうか――
場面は一転し、潮風の香りが鼻腔を突いた。
空を突くような大きな観覧車がある公園――見覚えのある景色に胸が高鳴る。
隣を歩く彼女が、眩しそうに空を仰いで微笑んでいる。
「見て、大きな観覧車。いつか……そう、この子が大きくなったら、家族みんなで乗りたいな。そして、未来の話をするの」
『家族』『未来』――
守るべきものができたのだという、誇らしさと責任感が、背筋をピンと伸ばさせる。
「ああ、約束だ。必ずまたここに三人で来よう」
また場面が変わり、彼女が優しく微笑んでいる。
よく見ると、彼女のお腹が僅かに大きくなっている気がする。
「男の子と女の子、どっちかしら。まだ生まれてもないのに、この子の将来のことを想像しちゃう。楽しみね」
穏やかな声とは裏腹に、背後ではけたたましいサイレンと、何かが爆発するような轟音が響いている。
彼女は自分のお腹を愛おしそうにさすっているが、その手には真っ赤な血が滲んでいた。
「名前、もう決めてあるの。……ねえ、あなた」
彼女がこちらを振り向こうとした瞬間、凄まじい閃光がすべてを飲み込んだ。
そして暗転――景色はモノクロームの絶望に染まっていた。
――そして、人だかりができている場所。
無数のフラッシュが焚かれ、誰かの叫び声が怒号のように響く。
そこは、銀行強盗が起きた直後の凄惨な現場だった。
一人の女性が倒れ込んでいる。
その傍らには、男性が血の海の中で横たわっていた。
その惨劇を、やり場のない怒りを瞳に宿して見つめる一人の男――胸元に警察バッジを光らせた、誇り高き刑事の姿が……。
倒れ込んでいる女性に駆け寄ろうとしたが、足が動かない。
とてつもない喪失感と、何者かへの激しい怒りが、心臓を握りつぶそうとしていた。
「……っ!」
ムタは、悲鳴を押し殺すようにして飛び起きた。
呼吸は激しく乱れ、小さな胸が壊れた時計のように波打っている。
今のは……ただの悪夢か?
それとも、俺が失った「記憶」の断片なのか?
あの女性は誰なのか、自分にとっての何なのか、ムタは頭を悩ませた。
あの女性が、自分の正体の手掛かりであることには違いない、そんな気がした。
そしてなぜ、あんなにも幸せだったはずの景色が、最後には血の海に沈んだんだ。
「……観覧車」
ムタは、震える声で呟いた。
見覚えのあった景色――観覧車がある公園のことを思い出した。
あそこへ行けば、何か思い出せるかもしれない。
「急がば回れ、か。……おい、颯介。寝ている場合じゃないぞ」
ムタは鋭い目つきを取り戻すと、夜の帳を切り裂くように、颯介の待つ児童養護施設へと駆け出した。




