葛藤と杞憂
「しっかし、何かが引っかかる……何か、思い出しそうなんだが……」
ムタは先程までとは打って変わり、声のトーンを低くした。
「ん?魚の骨でも引っかかってんの?」
俺は、そんなムタの様子を気にすることなく、適当に答えた。
「そうじゃない。さっきの……十六年前の銀行強盗事件のことだ。」
「ああ……あれな。俺の友達の親父さんが、巻き込まれて死んでるんだ。だから、俺も他人事とは思えない」
真剣な様子のムタに気が付き、俺も真面目に言った。
「そうだったのか……なるほどな。今回の殺人事件、十六年前の事件に関連していると思うか?例えば、後藤が十六年前の事件に関係していると知った何者かによる復讐、とか」
俺の話を聞いて、ムタは俺に問いかけた。
「わからない……ただ、俺だったら、復讐……してしまうかもしれない……」
俺は、自分の手を強く握りしめた。
「何を言うんだ。お前はそんなやつじゃないだろう」
「猫のお前に、何がわかるんだよ?」
「何となくだ、何となく!あるだろ?そういうの。それに俺は、人の言葉を喋れる時点で、ただの猫とは違う」
「まあ、そうだな……」
ムタはさっき、何か思い出しそうと言っていたが、思い出せたのだろうか――
そのときは、何も教えてくれなかった。
俺はムタと別れた後、児童養護施設へと直帰し、残しておいてくれた夕飯を食べた。
「……おかえり、颯介。今日も遅かったね」
「うわぁっ! 驚いた……施設長か」
夕飯の後片付けをしていると、暗い廊下から施設長が現れた。
自分しかいないと思っていた空間で、急に声をかけられたので、俺は驚いてしまった。
「ごめんごめん、驚かせてしまったね。……少し、顔色が悪いようだけど」
施設長は俺の顔を覗き込むと、どこか遠くを、あるいは過去を見つめるような、ひどく沈んだ眼差しを向けた。
「大丈夫だよ。ごめんね、連日遅くなって。……青柳さんと一緒だったから、安心してよ」
俺がその名前を出した瞬間、施設長の肩がわずかに固まったのを俺は見逃さなかった。
「……そうか。あの人と。……颯介、人は自分が見たいものだけを信じてしまう生き物だ。……それを忘れないでほしい」
「……? どういう意味だよ、それ」
「いや……独り言だよ。ただ、これだけは覚えておいて。ここは君の家だ。何があっても、私たちは君の味方であり、家族だ。……何か、自分だけでは抱えきれない不安や違和感を感じたら、いつでも私に言いなさい」
施設長の言葉は、いつになく切実で、重かった。
まるで、目に見えない何かに怯える俺を、必死に守ろうとしているみたいに。
俺は、その違和感を胸の奥に押し込み、自室へと戻った。
「おかえり。……今日は一段と、顔が険しいね」
部屋へ戻ると、俺の気配に気が付いた幸人が言った。
「……青柳さんと、家宅捜索に行ってきた。色々、わかっちゃったんだ」
「昨日も帰りが遅かったけど、何かの事件に首を突っ込んでるってこと……?」
「いや……この前行ったマジックショーで、殺人事件が起きたんだ。それで……」
「殺人事件……!?颯介は怪我とか……精神的なショックとか、ない?」
幸人は青い顔をして、心配そうに言った。
「大丈夫。ただ……幸人には、ちゃんと話さなきゃいけないことがあるんだ」
俺の真剣なトーンに、幸人は息を呑み、静かに二段ベッドの端に腰を下ろした。
――俺は、ずっと心臓の鼓動が激しく打っているのを感じていた。
幸人の父親は、十六年前の銀行強盗事件に巻き込まれて亡くなっている。
幸人の生まれ年の事件だから、父親との記憶は一切ないだろう。
しかし、父親の死をきっかけに、母親が体調を崩していったらしいということは、以前話してくれたことがある。
友達として、こういう時はどうするべきなのか?
十六年前の銀行強盗事件に関する手掛かりが見つかったと幸人が聞いたら――
「……颯介。僕を信じて。何を言われても、僕たちの関係は変わらないよ」
俺はそんなに難しい顔をしていたのだろうか。
幸人の澄んだ瞳に見つめられると、自分の中にある迷いがちっぽけなものに思えてきた。
彼はいつだって、俺が言葉に詰まるとき、その先を待ってくれる。
俺の不器用な正義感も、危なっかしい好奇心も、すべてを受け止めてくれた。
昔から、幸人はそうやって俺のことを助けてくれた。
そんな優しい幸人ならば、何を言っても問題なく受け止めてくれるだろう。
だが、今回のことは、少し勝手が違う。
言ってしまえば、幸人の人生を大きく変えてしまったであろう出来事に関係していることだから。
幸人は強い――俺は、俺なりに考えた結果、幸人にすべてを話すことにした。
「この前、世界的に有名なマジシャンが殺害されたのは知ってる?」
「うん、もちろん。知らない方が不思議なくらいには、ニュースで大々的に取り上げられてたからね」
「実は……その殺されたマジシャン、十六年前のあの銀行強盗犯の一人だったかもしれない。……お前の親父さんの命を奪った、犯人の仲間だったかもしれないんだ」
部屋の中が、凍りついたような静寂に包まれた。
幸人の手が、膝の上でかすかに震えるのを俺は見た。
だが、幸人はゆっくりと深呼吸をすると、俺の目をまっすぐに見つめ返した。
「……なるほどね。それで、そんなに苦しそうな顔をしてたんだね。颯介。君は僕が、これを聞いて復讐に駆られるような人間だと思ってる?」
「いや……思ってない。……ごめん、変な心配して」
「颯介はそうやって、問題を一人で抱え込むところがあるよね。そういうの、いらないから。僕は颯介と違って冷静に物事を判断するよ。安心して。僕は復讐なんか絶対にしない」
この心配事は、杞憂であったことにすぐ気が付いた。
「でも、覚えておいて。僕にとって大切なのは、十六年前の過去じゃない。今、目の前で一緒に悩んでくれる友達なんだ。……颯介が一人でその重荷を背負う必要はないよ。もし颯介がこれ以上危険な闇に踏み込むって言うなら、僕も巻き込まれに行くから」
幸人の言葉には、静かだが揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……ははっ。サンキュー。……最高のルームメイトだよ、お前は」
そうだ、一人じゃないんだ――俺は幸人の言葉を聞いて、温かい気持ちに包まれた。




